目次 前へ 次へ

蝦夷地質学の弐:ブレイク&パンペリー(1)

箱館鉱山学校(School of Mines and Applied Science)

「文久元年,幕府は蝦夷地鉱山採掘のため,米国地質兼鉱山学士ブレイク*1( William Blake ),パンペリー*2( Raphael Pumpelly )の二人を招聘した.……学生数名を伴って箱館に来,その冬はここで学科を教授し,翌二年四月になって学生五名に随行官吏および訳官各一名付添い,川汲,市ノ渡,遊楽部,利別川上流ならびに古武井砂鉄,ウシベツ炭坑(すなわち茅沼炭坑),山越内油井などを踏査し,利別川上流では水銀をもって砂金を採取し,遊楽部では火薬を使って岩石を破砕してみせた.」(新北海道史第二巻) 
 …この記述には若干の誤りが見出されている.

文久元年といえば1861年のことである.

江戸幕府に招聘されたブレイクとパンペリーはたくさんの鉱山・冶金・地質学をはじめとする自然科学の本を携えて,任地箱館へとやってきた.

そこで,日本人学生を相手に鉱山・冶金・自然科学について講義したと伝えられている.これを School of Mines and Applied Science(鉱師学校もしくは坑師学校)という.しかし,そこでどのような学生が学び,どのような講義が行われたのかなど,詳しいことはわかっていなかった.これらについて,長谷川誠一さんが前出の「函館英学史研究」において過去の記述の再検討をおこない,詳しい年表を作成している.


● 五人の学生

五人の学生については日本側の書類では不明であったが,長谷川さんがパンペリ−の「アメリカ・アジア横断(Across America and Asia)」*3から,Takeda, Oosmia, Tachi, Yuwao, Miyagawa の名を見出した.

それらは,

  • Takeda =武田斐三郎(諸術調所教授)
  • Oosmia =大島惣左衛門(蕃書調所出役教授手伝)
  • Tachi =立勝三郎(箱館奉行所)
  • Yuwao =岩尾勝右衛門(箱館奉行所)
  • Miyagawa =宮川三郎(塩田三郎;通詞)

であると長谷川さんは判断した.

武田斐三郎は学生とかかれてはいるが,すでに安政三年(1856)年に箱館に開かれた諸術調所の教授として,さまざまな西洋学問の実用化に取り組み,この時までにすでに古武井に熔鉱炉を完成させていた.

大島惣左衛門とは大島惣左衛門高任のことで,明治期になってから名乗った大島高任のほうがわかりやすいだろう(其の壱参照).

立勝三郎と岩尾勝右衛門は税関(箱館運上所のことか)の鉱業部門の役人と「日本踏査紀行*3」には書かれているが,二人については,ほとんどなにもわかっていない.長谷川さんは「(二人の名は)大島高任行實の中で発見した」としている.白山友正「武田斐三郎伝*4」には,島義勇「入北記」の一部が引用されており,そこには安政四年の箱館奉行所の機構として奉行所の役職と人名が挙げられている.そこには「雇同心」として「立勝三郎*5」の名が見える.だが,これだけではどのような人物なのか判断できない.一方,倉沢剛「幕末教育史の研究」*6には「立広作と宮川三郎(のちの塩田三郎)は,名村五八郎について英語を学び,その推薦で箱館奉行所の通訳となり…幕末有数な通訳となる.」とされている.たぶん,当時の箱館奉行所には「立」姓の役人が二人おり,しかも,立広作の方は通訳名村五八郎の弟子であるため目立たず,そのために起きた混乱であろうと思われる.

また,倉沢さんは岩尾勝右衛門については「岩尾勝右衛門は運上所の鉱山課の役人だが,鉱山の技術者ではない.」としている.ところが,新撰北海道史,新北海道史,函館市史に以下のような記述がある.

「安政三年正月,奉行竹内保徳は箱館地方の金,銀,銅,鉄,鉛の諸鉱山を巡見し、次いで南部藩に命じて鉱山に熟練した者を派遣させ,その良否を鑑定させた.同藩は命によって銅山山先*7岩尾勝右衛門,同舗手伝(しきてつだい)青山伝作,工藤市右衛門および鉱夫ら八名を箱館に派遣し,勝右衛門らは付近の諸鉱山を調査した結果,川汲金銅山,市渡銅鉛鉱を見込みあり,椴法華,精進川字鶴ケ沢,古部山を見込みなしとし,山相絵図および分間図を添えて復命したので,川汲,市渡の二鉱山を官業として開鉱した.」

岩尾勝右衛門は武田斐三郎や大島高任にくらべると,事後の業績の記録がなく,鉱山技術者ではなかったとしたほうが筋が通るかもしれない.しかし,新撰北海道史には翌年も岩尾勝右衛門が部下を引連れて複数の鉱山を検分したことが書かれている.つまり,箱館奉行所は岩尾勝右衛門を重用していたことがわかるのである.斐三郎や高任が西洋科学技術でのちに名を揚げたのにくらべて,岩尾は純日本式の鉱山技術しか知らなかったために,ついには忘れ去られてしまった可能性があるといえるだろう.ほとんど証拠はないが.

ブレイクとパンペリーが地質調査および実習につれて歩いたという五人の学生について,長々と書いてしまった.しかし,五人の学生とはいっても,二人は通訳*8で,一人は以後の消息が不明.実質,以後の地質学史に記録されるべき学生は武田斐三郎と大島高任の二人だったことがわかる.そしてこの二人は当時の日本の最高水準の技術者だった.

二人の米人鉱山技術者は大島高任の箱館到着を待って,蝦夷地の鉱山の探査と鉱業技術の伝習のために調査旅行に出発した.原著では「調査旅行」や「実習」の言葉が使われているが,その内容から,これ以後「(地質)巡検」を使いたい.この巡検の詳細については長谷川さんが詳しく解析している*9.彼らは都合三回の巡検をおこない,三回目の巡検のときに,いくつかの新技術を実際におこなってみせた.


蝦夷地質学の弐(2)へ続く




*1「ブレーク」 ウィルアム=フィップス=ブレイク( William Phipps Blake ):米国鉱物学者・地質学者.1826.6.1-1910.5.22. 1852年,シェフィールド科学学校卒業.鉱物学者・地質学者として活躍する.1861年,鉱山技術者として日本の徳川幕府に招聘され,日本で最初の応用科学学校を開く.
新撰北海道史第六巻に地質調査報告として「博士ブレーキ報文摘要」が再録されている.

*2「パンペリー」 ラファエル=パンペリー( Raphael Pumpelly ):米国地質学者.1837.9.8-1923.8.11. フライベルグ鉱山学校で学ぶ.卒業後アリゾナで鉱山技師として働いたのち、日本の徳川幕府から北海道の鉱物探査の要請を請けて来日(1861〜63年),北海道の地質調査を行い、箱館で鉱山技術,地質学を教授した.

*3 パンペリーの著「アメリカ・アジア横断(Across America and Asia)」は抄訳が「日本踏査紀行(伊藤尚武訳)」として,新異国叢書第II輯6に載録されている.

*4 白山友正「武田斐三郎伝」:白山友正(1971)武田斐三郎伝.北海道経済史研究所叢書第46編,函館,1-171頁.武田斐三郎への「愛」が感じられるまぼろしの名著.

*5 立勝三郎の名: この資料は北海道大学図書館のHPで公開されている. 北大図書HPから,「北方資料データベース」を選択し,「島義勇」で検索すると,「入北記 雨 (安政4年丁巳8月5日ヨリ同8月28日ニ止ル) 」があるので,その 21 頁目を開くと,右頁真ん中上あたりに「雇同心 立勝三ろ」とでている.

*6 倉沢剛「幕末教育史の研究」 倉沢 剛(1983)幕末教育史の研究(一〜三巻).吉川弘文館,東京.

*7 銅山山先 岩尾の職名は新北海道史,函館市史では「銅山先山」となっているが,原著の新撰北海道史では「銅山山先」になっている.山先とは黒澤太左衛門「鑛山至寶要録」よれば「其山見立てる者を『山先き』と言ふ」とある.続きは「山中諸事の相談をする役人なり.然るにより,山見立てる者一向不調法なれば,人がら能き者を壱人も貳人も山先の同役に添て,山先役さするなり.乍去,山見立てる者の子孫は代々山先なり,人柄にて山先になる者は,壱代限りなり」とあり,世襲制とはいえ,旧時代の和製地質屋といってもいいだろう.「舗手伝(しきてつだい)」に関しては,同じく黒澤太左衛門「鑛山至寶要録」に「山に口附けて,穴を掘を『鋪(しき)』とも間歩(まぶ)とも云ふ.鋪の竪の高さ,横の廣さを加勢(がせ)と云ふ」とあるので,坑道技術者か.このような和製鉱山技術についても,機会があれば調べてみたいと考えている. また,岩尾勝右衛門,青山伝作や工藤市右衛門のように,歴史にその名前だけが残されている鉱山技術者や地質屋と考えられる人びとがたくさんいる.しかし,彼らも地質屋に違いないと私は考えているので,「蝦夷地質学外伝」にできるだけ多く再録したい.

*8 通訳 蛇足かと思うが,当時の通訳は現在のように異国の言葉のインターフェイスとしてのみ考えてはならないと思う.なだれを打って流れ込んでくる西欧科学技術の水門であったので,通訳=科学技術者という性格も十分に備えていたのだ.

*9 blake・Pumpelly 関係年表
  (長谷川誠一「箱館英学史研究」p. 120より,一部修正)

1861年 文久元年
 4月23日  三月十四日  箱館奉行村垣淡路守・津田近江守:蝦夷地における鉱山開発のため米公使 Harris に鉱山技師の周旋を依頼
 11月23日  十月廿日 Blake , Pumpelly:米国出発
1862年 文久二年
 2月21日(?)  一月廿三日(?) Blake , Pumpelly:横浜着
 2月24日  一月廿六日 Harris: Blake , Pumpelly の神奈川着を報
 3月18日  二月十八日 Blake, Pumpelly:箱館奉行槽屋筑後守と会見
 4月28日  三月三十日 Blake, Pumpelly, 米箱館事務官 Rice:村垣淡路守と会見.学生として大島惣左ェ門を紹介
 5月不詳  四月不詳 Blake, Pumpelly, Rice:横浜発(船旅)
 5月9日  四月十一日 Blake, Pumpelly, Rice:箱館着
 5月10日  四月十二日 Blake, Pumpelly:箱館奉行と会見
 5月22日  四月廿四日 大島惣左ェ門:箱館着届出(陸路)
 5月24日  四月廿六日
  |   | 第1回地質巡検(調査:武田,大島ら,学生として随行)
 6月7日  五月十日
 不詳  不詳 鉱師学校 (School of Mines and Applied Science)開校
 8月5日  七月十日
  |   | 第2回地質巡検(調査)
 9月14日  八月廿一日
 10月13日  閏八月廿日 第3回地質巡検(採鉱技術実地指導)に出発: Blake 班は国縫へ, Pumpelly 班はユーラップヘ
 10月16日  閏八月廿三日 Pumpelly 班:ユーラップ山着(Powder blasting 指導;武田,立随行)
 10月19日  閏八月廿六日 Blake 班:国縫着(Gold mining 指導;大島ら随行)
 11月1日  九月十日 Blake 班:国縫巡検より箱館帰着
 11月20日  九月廿九日 Pumpelly 班:ユーラップ巡検より箱館帰着
 11月26日  十月五日 鉱師学校新校舎ほぼ完成
 12月2日  十月十二日 鉱師学校再開
 12月4日  十月十四日 Blake, Pumpelly:契約終了
1863年 
 1月8日  十一月十九日 Blake, Pumpelly :契約終了につき便船次第箱館発の通告受領
 2月13日  十二月廿五日 Blake, Pumpelly :箱館を去る
文久三年
 2月末  一月上旬 Blake, Pumpelly :長崎着( Pumpelly :長崎に滞在)
 2月21日  二月三日 Blake :上海にて村垣淡路守宛書翰
 3月末  二月上旬 Pumpelly :上海着(揚子江をのぼり中国奥地を踏査)
 4月3日  二月十六日 Blake :再び箱館に立寄
 4月22日  三月五日 まで滞在
 著者について  著作権について

 Copyright (C) 2003 地学団体研究会北海道支部 All Right Reserved.