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蝦夷地質学の参:ガワー(Erasmus H.M.Gower)(1)

謎の外人:ガワー*1

ブレイクとパンペリーが蝦夷地を去ったあと,国内では石炭の需要が増し,そのために大島高任が茅沼炭鉱の開発を命ぜられて岩内に向った.しかし,高任はブレイクとパンペリーの鉱山学校の学生ではあったが,炭鉱の開発については学ばなかったようだ.高任にできたことは,ブレイクとパンペリーが残したたくさんの洋書から,独学で試行錯誤することであった.そのため諸術調所に残した「借用書」が,奇しくも蝦夷地質学史に重要な史料となった.
 
ただ残念なことに独学の限界があり,高任の採炭計画は採掘も運搬も人力にたよる原始的なものでコスト高になり,採算が合わなくなって茅沼炭鉱は休山状態に追い込まれたのだった.
 慶応年間(1865〜1867)に入ると,箱館港に出入りする外国蒸気船が増加し,石炭不足はいよいよ深刻となってきた.そんな時に箱館奉行所に雇われたのが,英国人鉱山技師ガワーであった.

例によって,ガワーの業績というのも,よくわからないことのほうが多いのだが,史料や歴史書を読むと「ガワー」は,名前からしてすでに混乱している*2.ここで,ガワーとよぶのは,長谷川誠一「函館英学史研究」にそう書いてあるからにすぎない.ちなみに倉沢剛「幕末教育史の研究」では「ガワル」と表記されている.
 混乱の様子は長谷川さんがまとめているので,それを引用しよう.
 「その名前も日本語ではカワール,ガワル,カール,ゴール,ガール,ガハール,ガハ,カウル,ガパール,ガウル等と書かれ,英語でも Gawar, Gaware, Garrer, Gaal, Gaol 等と文献に表れているので,これが同一の人物とは思われぬ程である.」

また,幕末期には少なくとも三人の Gower が在日したことがわかっており,これが鉱山技師ガワーの実像の把握を困難にしている.その三人とは長谷川さんによれば,
  1) S. J. Gower (ジャーディン・マゼソン商会横浜代理人)
  2) Abel A. J. Gower (在日英公使館・領事館勤務)
  3) Erasmus H. M. Gower (英国人鉱山技師)
である.通常の史料には Gower としか記録されていないのが普通で,長谷川さんや倉沢さんの調査は困難を極めたことであろう.私自身もこの多様な名前のために混乱し,長谷川さんの記述を読んでようやく納得した次第である.
 以下,長谷川さんと倉沢さんの調査によるガワーの蝦夷地での動向を略述してみよう.

この頃,英国領事館館員による「アイヌ墳墓盗掘事件」*3があった.
 英国領事館館員がアイヌの骨格標本を入手するために,墓を暴き数体の遺骨を英国に持ち帰ろうとした事件である.当時の箱館奉行の外交手腕により,遺骨は取り返されたとされているが,ロンドンの自然史博物館には,現在もこの時の骨格が所蔵されているという話もある.
 この事件の後始末のために箱館領事として新任したのが Aber A. J. Gower だ. Erasmus H. M. Gower はその兄にあたる.弟・ガワーはアイヌの遺骨が盗掘された森や落部をまわり,アイヌに賠償金を支払っている.その時に,兄・ガワーを伴い,遊楽部銀山の坑道を視察した.兄・ガワーは,その時に同銀山役人・石川章右衛門に金銀鉱採掘法や製錬法を指導したとされている.残念なことに,その具体的なことは不明である.これは慶応二(1866)年九月のこととされている.さらに,彼らは岩内にも足を伸ばして茅沼炭鉱を調査し,十二月に箱館奉行に調査図を含む意見書を提出した.

箱館奉行・杉浦兵庫頭はこの意見書を元に,茅沼炭鉱の再開発とガワー(兄)の雇用を決定,老中に届け出た.この時の書類の別紙に,ガワーが諸学科を伝習したという書類が添付され,倉沢さんはこれを「幕末の鉱業伝習」のひとつにあげている.
 それに示された学科は,「小銃調練」,「分離学・測量学」,「伊太里亜語学」である.このほかにも講義がなされ,たまたまそれが見つからないだけなのかもしれないが,講義内容としては異様に中途半端であると思われる.「分離学」というのはたぶん金属製錬法のことであろうし,「測量学」は地質図学・(地質)測量学に近いものであろうかと思われるが,「小銃調練」や「伊太里亜語学」はどのような位置づけなのかわからない.

なにはともあれ,慶応三(1867)年三月一日,兄・ガワーは幕府の御雇い外人となり,茅沼鉱山は再開発が開始された.ガワーの提案により,茅沼炭鉱鉱口から海岸まで道路が切り開かれ,波止場に貯炭場が作られた.これにより石炭の運送費が大幅に節約されたという.さらに器材の到着をまって,坑道の改良にもとりかかったとされるが,これらは史料不足でどのようなものかわからない.しかし,茅沼炭鉱の改良に成功したため,ガワーは慶応四年に佐渡金山の再開発も依頼され,そこでは火薬による鉱石採取法を教え,また坑内の排水ポンプを設計し,その使用法を教えたとされているので,同じことが茅沼炭鉱でも行われたのであろうと倉沢さんは推測している.
 発破による鉱石採取法は,すでにブレイクとパンペリーが遊楽部鉱山で紹介済みであるし,同地で複数の人間に伝習されたという記述がある.ガワーの前には大島高任が茅沼炭鉱の開発に従事していたし,大島はすでに発破法には熟練していたはずである.また,佐渡金山では寸法樋や竜樋(アルキメデスポンプ)がすでに使用されていたはずであるから,排水ポンプについての記述も,もっと具体的な記録が見つからないと,なにが行われたのかはわからないとしたほうが正確だろうと思う*4
 しかし,茅沼炭鉱は明治にはいってからも石炭を産出し続け,道内の主要な炭鉱であり続けたのだから,なにか重要な改良がおこなわれたはずである.なにが行われたのか蝦夷地質学史上では重要な点であり,是非とも知りたい所である.

以下は全くの想像に過ぎないが,このようなこともあったかもしれない.
 これまでの日本の採掘法は炭層に沿って炭層そのものを掘りながら,無計画に掘り進むのが普通だった.したがって,場合によっては,それ以上掘り進むのが困難になり,途中で放棄される坑道*5もたくさんあった.しかし,金属鉱床と異なり,石炭層は地層そのものであるから,比較的地下での産状が把握しやすい.したがって,地質学的な素養があれば計画的な坑道掘りが可能なので,切羽から坑口まで石炭を運搬しやすい坑道や排水の楽な坑道などを提案できたのではないかと考えている.


蝦夷地質学の参(2)へ続く




*1 ガワー
 ガワーの記録についてまとまったものはほとんどないが,長谷川誠一「函館英学史研究」に「北海道大百科辞典」からの引用があるので略述する.内容には多少疑問のある点もある.

Erasmus H. Gower
 天保元(1830)-明治三十六(1903):イギリス人.徳川幕府および明治政府雇鉱山技師.イタリア生まれ.安政六(1859)年,神奈川開港とともにジャーディン・マゼソン商会員として来日.幕府雇いとして,慶応三(1867)年茅沼炭鉱の開発計画をたて,海岸の貯炭場まで約4kmの軌道を敷設.火薬を使用して採炭を行なった.これら日本で初めての洋式技術で同炭鉱の経営は安定した.慶応四(1868)年,幕命で佐渡鉱山を調査.明治三(1870)年,明治政府雇い技師として雇用.明治七(1874)年まで同鉱山の採鉱,運搬,排水,製錬の近代化にあたった.その後,開拓使や長崎・高島炭鉱の開発顧問を務めた.のち,インドにしばらく在住したが,再来日し,晩年は生地に帰ったとされる.
 伊藤俊輔(博文)らの密出国を助けたといわれる.

*2 Gower の日本語表記と英語表記
 日本人は表音文字=「ひらがな・カタカナ」,表意文字=「漢字」の使用が当たり前であるために,英語の単語は表意文字でも.表音文字でもないことに思いも寄らない.とくに人名はどのような綴りであろうと,本人が発音する通りに発音しなければならないので,たとえ人名の綴りが正確に残されていたとしても,どのように発音するかは結局わからない.また,英語にはネイティブ・ジャパニーズには発音できない「音」というのもあるので,これらはもちろん日本語では違いを表記できない.だから,カタカナで書かれた Gower の日本語表記が多様であるのは理解できるが,英語の綴りがこれほど多様であるのは理解ができない.なにか特別な理由があるのだろう.

*3 「アイヌ墳墓盗掘事件」
 「アイヌ墳墓盗掘事件」については,いくつかの出版物があるようだが,どれも入手困難.概要を知るには,吉村昭「黒船」がいいだろう.ただし,一部史実とは違うことが指摘されている.吉村氏は,日本人に外交手腕がなく一方的に外国の言いなりになってきたのではないことのエピソードとしてこの事件を挿入したのだと思う.

*4 ガワーの排水ポンプ
 吉田光邦(1968)「お雇い外国人(2)産業」に佐渡鉱山に提案した排水設備のことが載っている.ただし,131頁に「坑内排水用のポンプを設計し,その使用法を教えていった」とあるが,133頁には「必要なポンプの設計図をイギリスに送った.このポンプは蒸気機関をつけてイギリスでは一万二千五百ドルから一万五千ドルくらいであろう.」とあるものの,このポンプが納入・稼働したという記述はなく,話が矛盾する.また.この経緯から茅沼炭鉱で排水ポンプが導入されたと推測することは困難であろう.
 また,同書にはガワーの報告なるものが引用されており,それには「坑内の水を排除する機械はまったくない.排水の桶はすべて綱と滑車で動かされ,二十から二十一ヵ所がそれであった.」とあるが,これはほかにたくさんある佐渡金山の排水施設の記述と矛盾する(奥村正二「火縄銃から黒船まで」など).
 蛇足だが,ガワーは新政府に雇用され,佐渡鉱山勤務になったものの,ガワーが提案した製錬法は失敗したと書かれている.不明な点が多い上に,ガワーの報告書(公式な報告書というよりは,売り込むためのパンフレットといった性質なのかも)に誇張があり,また後の研究者がガワーの業績を強調するためにバイアスを与えている可能性も高い.

*5 放棄される(た)坑道
 一番多いのが,地下水のために水没する坑道で,江戸時代のどの鉱山の話でもこれがでてくる.水抜きのための坑道を掘ればいいのだが,付属施設にお金をかけるという発想が乏しいために坑道が放棄される一番の理由になっていた.また,炭層(鉱脈)そのものを掘る工法のため,一部では人夫が這って歩かなければならない坑道もでき,そのために石炭(鉱石)の搬出にコストがかかりすぎて廃坑になる場合もあったらしい.

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