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蝦夷地質学外伝

●其の壱 知内一件

「建久二年,筑前の漂人蝦夷知内の濱に着し,水を索して山に入り,一小金塊を獲たり.携えて筑前に至り,陰蔵して人に示さず.のち,故郷甲斐に帰り,領主荒木大学に致す.大学,之を鎌倉将軍頼家に献ず.鎌倉,賞するに米千石を以てし,大学,亦禄を分けて百五十石を與へ,名て荒木外記と称せしむ.頼家,即大学に命じて外記を以て先導と為し,金の多少を点検せしむ.大学,役夫及び淘金八百人,修験者一名,兵備を準し千餘人と供に是歳六月二十日甲斐を発し,七月二十三日矢越(今,渡島国亀田郡に属す)に抵り,塁を無毛嶽に築き,砂金を洗淘す.知内の辺りに始まり,武佐川及び其の支流に及ぼし採集する凡そ十三年.多く黄金を獲たり.又外記の為に塁を無毛嶽の麓に築く.土人,其の處を称して外記山と云う.当時,蝦夷は凶暴,戦闘を好み淘金者を害す.因りて,隙を生じて相闘う.遂に土人の殺す所となる.土人勝に乗じて海を踰て,内地に入り,戦いて敗亡す.是より淘金の業廃す.修験者其族と土人に依り免るを得たり.後年,一百五にして死すと知内村大野土佐日記に見ゆ.」(「北海道志」より.句読点付加およびひらがな化をおこなった)

北海道志では,この後に続けて,建久以来ほぼ七百年がたっているのに,日付があまりに詳細であるために,逆に疑わしいと記してある.
 建久二年は西暦1191年にあたる.
 しかし,これは北海道の鉱物資源に関する最古の記録でもあり,ものが「黄金伝説」その物であるために,その後も「信用できない」という但し書きが付ながらも,しばしばあちこちで引用されている.そして,その引用はそれぞれに微妙に異なる.たとえば,その時代にしても「建久二年」とするものと,「元久二年」とするものがあり,元久二年は西暦1205年であるから,14年のズレがある.「北海道志」(1881)から「北海道鉱業誌」(1934)までの比較的古い文献では建久説をとり,「新撰北海道史」(1937)以降は元久説をとっているものが多いようである.
 鎌倉幕府が開かれたのが建久三(1192)年で,時の将軍は源頼朝であるから,記述と合わない.頼家は頼朝の長男である.元久二(1205)年には,将軍職は次男の実朝にゆずられているために,これも記述と合わない.実朝はこの年,十三歳の少年である.
 このような矛盾が信用できないとされる理由であろうか.
 しかし,これまでいくつか見た「大野土佐日記」を引用している文献の著者のどれだけが実際に「大野土佐日記」の実物を見て,解析したのか疑問である.この「大野土佐日記」は知内町の某神社に保存されているというが,内容を疑われながらも,十分に研究された様子がないのも不思議である.現物は「お宝」であるから,触らせてほしいとも思わないが,複写だけでも手に入らないものかと思っている.

以前,「××(某市)の古地図」というような講演会があったので,聞きに行ったことがある.たくさんの古地図がスライドで示されたが,松浦武四郎の地図だけが出てこない.講演終了後,「武四郎の地図は出てきませんでしたが,なにか理由があるのですか」と,そのことについて尋ねたら,質問がでること自体に妙な顔をしながら,「とくに理由はない」とのことだった.
 とくに理由がなくても,先人の業績について触れなくてもいい学問とはなにかと考えたが,場違いなのはわたしの方のようだったので,早々に退散した.
 実は武四郎の地図や文書が学者に敬遠されがちなのは理由がある.
 武四郎にはたくさんの著述があり,相互に矛盾するものもあるのだ.彼が残した文書には公的な報告書,一般市民向けの読み物,私的な日記などの違いがあり,とくに一般市民向け読み物には創作に近いものも入っていて,これが学者先生には気に入らなかったらしいのだ.「史料として使用するには不適切である」とまでいわれた.しかし,日記や報告書などの背景を押さえて読めば,惑わされることもなく多くの情報を得ることができることを,札幌で行われた地学団体研究会第56回北海道総会(2002)の特別ポスターセッション「有珠を愛した男たち」で示した.
 もちろん,わたしは「大野土佐日記」の実物を見ていないので,真偽の判断はできない.だが,多少矛盾があるからといって無視していいものとも思えない.なんとならば,知内付近で砂金が出たのは史実であるし,金山をめぐり,先住民であるアイヌと和人とのトラブルはこの一件以降徐々に史実としての記録が増えてくるのだ.

上野景明(1918)「明治以前に於ける北海道鉱業の発達」や北海道石炭鉱業会(1934編)「北海道鉱業誌」には,当時はアイヌも砂金を掘っていたために利害の衝突が起こったとしているが,そう考えるのはやはり砂金を掘っている和人の立場から考えたためだろう.たとえ砂金を掘る習慣がなくても,誰だって自分が生活している場に無断で入り込まれたり,荒らされたりしたら不愉快だろう.
 ましてや,和人たちが砂金を掘っているのはアイヌが生活の糧にしているサケが遡上し産卵する川なのだ.砂金を洗い流した土砂はサケの遡上を阻害するだけでなく,サケの産卵の場も奪う.数年後にはサケの遡上は激減するだろう.サケを必要としているのは,アイヌだけでなく流域の動物たちもみな同じであり,産卵後のサケの遺体は豊富な栄養源を大地に残す.これを利用して植物が茂り,動物達の生活環境を豊かなものにしてゆく.これらの循環がすべて断たれるのだ.
 砂金掘りが先住民アイヌの生活権を侵害したのは明らかだろう.

蛇足になるが,大野土佐日記のこの部分(もちろん,原著ではなく「北海道志」中の記述である)には,いくつかの地名がでてくる.知内はもちろん現在でも使われている地名であるが,その他の地名については,ほとんど追跡できない.わずかに「矢越」については,知内町と福島町の町界に「矢越岬」というのがあるが,ほかの「無毛嶽」,「武佐川」,「外記山」はわからない.
 ただし,知内発電所南を流れる小河川は「外記川」という名称で,付近の山のいずれかが「外記山」とよばれていた可能性はある.

北海道開発庁(1960編)「北海道の地下資源」には,もう少し長い「大野土佐日記」からの引用がある.ただし,引用文はほとんど現代語化されているので,正確さについてはわからない.たとえば,「北海道志」では「矢越に抵り」とあるが,「北海道の地下資源」では「桶元に上陸した」とある.桶元とは知内低地帯最南部の「涌元」のことであろうか.

「稼行地が上流に進むにしたがって,居城も丸山に移し,爾後,さらに30余年にわたって鬱金岳(大千軒岳)に源を発する知内川諸流域の砂金を採掘した.大学はここに菩提寺を建立するとともに,寛元二年(1244年)には上賀茂・下賀茂の両社を祀ったので,鉱山街も繁昌し,戸数1,000軒にも及んだので,千軒山の名が起こった」(「岳」の字は「缶」と印刷してあったが,明らかな誤植と思われるので修正した.)

現在の地形図には,先ほどの外記川の水源部に「丸山」の地名がある.してみると,ここが「外記山」ということなのだろうか.
 また,この記述だと,もともと鬱金岳とよばれていたのが(別名とも考えられるが),砂金掘りの集落が千軒あったために,「千軒山」の名が起きたと解せられるが,北海道志には「浅間(せんげん)」の文字もあり,これが「千軒」に転じたとも考えられる.地名解は容易ではない.



蝦夷地質学外伝 その弐へつづく

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