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蝦夷地質学外伝

●其の拾 「Japan in Yezo」(ブラキストン)

い ブラキストン・ライン

前回で,外伝に登場する人物のネタは,ほとんどつきてしまったが,最後に一人だけ,幕末から明治にかけて,日本(もしくは蝦夷地)にいた異色の外国人について触れておきたい.その人はトーマス=W.=ブラキストン(Thomas Wright Blakiston)*1である.ブラキストンの地質学的知識を示すことによって,当時の日本と欧米の知識人の地質学的知識の比較ができるだろうと思うからである.

ブラキストンという人物については知らなくても,「ブラキストン・ライン」という言葉を知っているひとは多い.
 ブラキストンの趣味は鳥撃ちで,たくさんの標本を集めていた.彼は職業学者ではなかったが,北海道を去ったあと,彼のコレクションからえたデータを横浜在住のプライヤー*2と共に1880年に発表した*3.この時にリストとともに津軽海峡を境に鳥類相が異なるという見解を公表した.三年後(1883.2.14.),この津軽海峡動物相境界は「日本列島と大陸との過去の接続の動物学的兆候」となって結実する.

「蝦夷地ならびにそれより北方の諸島は,動物学的に申せば,日本ではなく,北東アジアの一部なのであります.そこから,本州は津軽海峡という疑いのない境界線で断ち切られたのであります.」(原文は英語:上野「お雇い外国人」の日本語訳より引用)

ブラキストンはその原因を地質学的過去に求めた.つまり,過去の氷期に津軽海峡が結氷し陸橋が成立することによって動物が行き来し,氷期のおわりに海峡が成立することによって分断され,現在本州と北海道の動物相の違いが生じた*4のである.
 ブラキストンのこの指摘に,工部大学校・教授のジョン=ミルン(John Milne: 1850-1913)が立ち上がった.そして,「津軽海峡という新境界線をブラキストン線(" Blakiston's line ")と呼ぶ」ことを提案した.ミルンはすでに,日本に氷河が存在したことを論じており,ブラキストン線の存在は,彼の理論を裏付けるものだったからである.「ブラキストン線」の名は,この日から始まったのである.

「ブラキストン・ライン」が有名なわりにはブラキストンという人物については知られていない.理由は不明である.考えられるのは,彼は民間人であること.つまり,「お雇い外国人」の範疇には入らず,歴史学者からは,ほぼ無視されてきたこと.生物学的な功績があるにもかかわらず,外国人でアマチュア学者であったため,科学史家からも無視されてきたことなどがあるのだろう.
 また,彌永芳子「トーマス・W・ブラキストン伝」によれば海外でもブラキストンについての資料を集めることは困難だったいう.海外では日本での動向が不明になっているのだそうだ.

そのため,ブラキストンという人物を語る書物はすくない.知っている範囲内ではたった二つだけである.いずれもすでに入手困難になっている.
 ひとつは,上野益三(1968)「お雇い外国人(3)自然科学」(鹿島出版会)中の「トーマス・ライト・ブレーキストン」である.もちろん,ブラキストンは「お雇い外国人」ではない.上野がブラキストンをこの本の最初に取り上げたのは,函館に二十三年もの間住み,複数のお雇い外国人と交流があり,キーマンであるからだ.もちろん,自然科学上の業績も無視することができないのはいうまでもない.

もう一つは,彌永芳子「トーマス・W・ブラキストン伝」である.これは,ブラキストン,T. W. 「蝦夷地の中の日本(近藤唯一,1979訳)」の付篇として発行されている.本の形態としては奇妙だが,一冊で,ブラキストンの旅行記と伝記が入手できるのはありがたい.この形態のためか高価になっているのは残念であるが.なお,「蝦夷地の中の日本」は原題が「" Japan in Yezo "」であり,「蝦夷の中の日本」が正確である.もちろん,「日本の中の蝦夷地」ではない.一般には“奇妙な表題”と思われるようだが,ブラキストンは,蝦夷と日本は別のものとみなしており,どうも,「蝦夷」は好きだが「日本」は嫌いだったらしい.あくまで「蝦夷」の旅行記であり,観察記である.その中にブラキストン・ラインを越えて,侵入してきた日本があるという意識なのだろうと思う.

ブラキストンの旅行記がもう一冊和訳されている.
 ブラキストン,T. W.「ブラキストン えぞ地の旅(西島照男,1985訳)」(北海道出版企画センター)である.これは,「ブラキストンが,1869(明治二)年,北海道を旅行した時の旅行記(" A Journey in Yezo ")を翻訳したものである」そうだ.原著は「1872(明治五)年,ブラキストンが英国王立地学協会誌に発表し,活字になったもの」を使用したそうだ.「英国王立地学協会」は「" Royal Geographic Society "」のことだと思う.

現在,ブラキストンのことを知る手がかりはこれだけだが,SF作家・豊田有恒がブラキストンを主人公に「北方の夢」(祥伝社)という小説を著している.

もひとつ.蛇足すれば,
 シマフクロウは北海道のシンボルであり,アイヌ民族からは「コタンコル-カムイ[kotankor-kamuy]」もしくは「カムイ-チカップ[kamuy-chikap]」*5として親しまれた.その学名はBubo blakistoni Seebohm, 1884 *6であり,もちろん,ブラキストンの名が付けられたものである.ブラキストンの標本をシーボウム(Henry Seebohm: 1832-1895)が記載するときにブラキストンの業績をたたえてつけたものだろう.


蝦夷地質学外伝 其の拾 ろ へつづく





*1 トーマス=W.=ブラキストン(Thomas Wright Blakiston):
 ブレーキストンの方が,実際の発音に近いそうであり,生物学辞典(岩波書店)でもこちらを採用しているが,ブラキストンという表記の方が圧倒的に多いので,こちらを採用しておく.彌永さんによればブレーキストン[Blake-iston]ではなく“ブラッキストン[Blackiston]”と発音されていたので,そう誤記されていたことがあることを紹介している.

*2 プライヤー:
 ヘンリー= J.=S.=プライヤー[ Henry James Stovin Pryer].1850年,ロンドンに生まれる.1871年,来日.横浜のアダムソン=ベル海上保険会社の社員として勤務し,1888年,同地にて病死.アマチュア博物学者.各種動物の採集を趣味とし,特に鳥類や蝶類を好んだ.「日本蝶類図譜」(三巻:1886〜1889)を自費出版している.(上野益三「お雇い外国人=自然科学=」のトーマス・ライト・ブレーキストンより)

*3 1880年に発表した:
 上野益三「お雇い外国人」によれば,1880(明治十三)年1月13日,東京・聖堂昌平館で開かれた「日本アジア協会」の例会でブラキストンとプライヤーの共著で,“日本鳥類目録”が発表された.著者らが不在のため,代読されたということである.つまり,論文ではなく口頭発表である.
 このとき発表されたのは,ただの目録だけではなく,「日本における鳥類の分布上,津軽海峡は疑いもなく,動物学的境界線( " a zoological line of demarcation " )だ,という重要な発言がしてある」そうだ.
 発表後,その例会の座長を務めた工部大学校教授のダイバースから,津軽海峡分布境界線についての詳しい発表を勧められ,それは三年後,1883年の日本アジア協会の例会で発表された.「日本列島の大陸への過去の接続おける動物学的兆候 " Zoological indications of ancient connection of the Japan islands with the continent " 」である.

*4 動物相の違いが生じた:
 上野益三「お雇い外国人」にはこのあたりのブラキストンの見解が解説されているが,説明が不十分なのか誤解があるのか,理解できないので省略する.ただし,氷期があったこと,その氷期は現在の島を陸続きにするほどのものであったこと,そしてその氷期は動物群の分布を一変させるほど続いたものであったことを認識していることが指摘されている.また,「南方系動物の分布には,日本は南方でも大陸と接続していたと考えなければならないことと指摘した」ことを指摘している.
 なお,ブラキストンは寒冷化による海峡の結氷が陸橋になったと考えているが,現在では,寒冷化による海水準低下の方が陸橋生成の主因と考えられている.

*5 「カムイ-チカップ[kamuy-chikap]」:
 和訳では「銀の滴降る降るまはりに」の歌い出しで有名な知里幸恵編のユーカラの原題は Kamuichikap kamui yaieyukar, " Shirokanipe ranran pishikan. " 「梟の神の自ら歌った謡『銀の滴降る降るまはりに』」である(知里幸恵編「炉辺詩曲 アイヌ神謡集」より;原著は1923年に東京郷土研究社より発行.1970年に,札幌弘南堂書店より補訂版発行.1978年に岩波書店より出版されている).

*6 Bubo blakistoni Seebohm, 1884:
 日本語の図鑑などでは Ketupa blakistoni となっているものも見かける.残念ながら,日本の生物学者は学名を粗略に扱うので,経緯は不明である.記載者名もほとんどの場合に省略されているので,図鑑を見た一般の人はシマフクロウにはたぶん, Bubo blakistoni と Ketupa blakistoni との二つの学名があると思い込むことだろう.
 原記載は(たぶん) Bubo blakistoni Seebohm, 1884と思われる. Ketupa blakistoni となっているものには(Seebohm, 1884) になっているものがあるので,いつかだれかが新しい属名と種名の組み合せをおこなったのだろうが,もちろん,こういう経緯や理由はいつも不明である.
 ある図鑑の末尾に,「学名はしばしば変わるので省略した」と書いてあるのを見た時には唖然とした.何をか言わんやである.図鑑を出版しておきながら,その生き物をなにに同定したのかに責任を持たないことを明言するとは!
 もう一ついわせてもらえれば,普及書には和名だけで学名がでているものはほとんど無い(図鑑にはさすがに「属名」+「種名」ぐらいは出ているものもあるが,学名の意味や記述法を理解しているのだろうかと悩むものも多い).和名には規則がないのでAさんの“シマフクロウ”がBさんの“エゾフクロウ”だって,まったくかまわない.だから,学名を明記していない図鑑や普及書にはなんの意味もない.
 もっといわせてもらえれば,時々ある学名のカタカナ表記は,あくまで「学名のカタカナ表記」であって,すでに「学名」ではない.理由は日本語圏以外の人には理解できないからだ.もちろんこれは,鳥類図鑑だけでなく,動物図鑑,化石図鑑もみな同じことが言える.
 学名やその解説を粗略に扱う傾向は,分類学の衰退を招くだろう.



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