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蝦夷地質学外伝

●其の弐 コシャマイン蜂起す

康正三(1457)年春,コシャマイン率いるアイヌ連合軍が蜂起.

「アイヌ軍の来襲に備えて,あらかじめ完全武装していた各館を,コシャマイン軍は破竹の勢いで陥れていく.すなわち,まず志濃里の小林良景およびその一党,つづいて箱館の河野政通,中野館の佐藤李則,脇本館の南条李継,穏内館の蒋土李直,覃部館の今泉季友,松前大館の下国貞季および相原政胤,禰保田館の近藤季常,原口館の岡部季澄,比石館の厚谷重政と,つぎつぎと攻め落としたのである.『新羅之記録』によれば,この時残ったのは,下国家政の茂別館と,蠣崎季繁の花沢館の二館だけだったという.」(新谷行「アイヌ民族抵抗史」)

「館(たて)」とは小規模の城・砦のことで,この頃,渡島半島南端部の海岸沿いに志濃里(志苔)から厚沢部にかけて十二の館があったという.はて,これだけだと,小さな砦を襲う組織的で完全武装した悪いインディアンという図式の西部劇のようだが,西部劇も実際に侵略したのは白人の側で,小さな砦も本当は侵略のシンボルだった.さて,蝦夷地ではどうだったのだろうか.

シャクシャインの蜂起には,きっかけがあった.

「康正二年(1456)當春大乱,其起因,志濃利の鍛冶村(渡島国亀田郡)に乙名来り[マキリ]を打す,乙名[マキリ]の善悪を痛論す,鍛冶刀を以て乙名を突殺す.依之蝦夷蜂起して,東西四十里に人民多く減ず.」(上野景明,1918「上記」より.上野は「松前舊事記」から引用)

「乙名」は部落長クラスの人を指す.[マキリ]はアイヌの使う小刀をいう.[マキリ]は原文では漢字で示されているが,通常使う漢字ではないために表示できない.
同じ事件を「新北海道史」(1970)が「新羅之記録」からとして引用している.

「康正二年春乙孩(オツカイ)来て鍛冶に[マキリ]を打たしめし処,乙孩と鍛冶と[マキリ]の善悪働を論じて,鍛冶[マキリ]を取り乙孩を突き殺す.之に依て夷狄悉く蜂起して,康正二年夏より大永五年春に迪るまで,東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り,者謀(シャモ)を殺す事,元は志濃里の鍛冶屋村に起るなり,活き残りし人人皆松前と天河とに集住す.」

「乙孩」とはアイヌの少年のことである.
 比較的古い文献ではアイヌ側の人物は「乙名」となっており,比較的新しい文献では「乙孩」である.この違いは小さいが,大変な違いであると思う.「乙名」であればリーダーであり,和人と大きなトラブルを起こせばどうなるか十分にわかっていたはずである.これはその後の歴史が証明している.一方,「乙孩」(=少年)であれば,それこそ「お使い」だったので,彼はトラブルを起こせばどうなるかというより,その時の使命を果たす以上の考えはなかったのだろうから場合によっては,トラブルは起こり得るだろう.
 アイヌの側の反応も同じことがいえる.リーダーが,たかが小刀のことぐらいで和人とトラブルを起こしたことだけでも情けないのに,おまけに刺し殺されたのだ(平和な現代に住むわれわれは「刺し殺され」たら一方的な被害者と思うかもしれないが,ヒグマとの格闘も厭わない当時の一人前のアイヌだったら刺し殺されたら「恥」だと考えるのが普通だと思う).親族による個人的な復讐ぐらいはあっても,アイヌ全体が蜂起することなどとても考えられない.また,それが少年であったとしても,ただそれだけではアイヌ全体が蜂起するとは考えられない.背景には先住民であるアイヌと徐々に増えていく和人との間に,増えてゆく軋轢があったとしか考えられないのである.
 非常に微妙な,それでいて効果的な歴史の改竄があった可能性がある.

という背景を理解していただいて,地質学的なことについて述べよう.

事件は「志濃里の鍛冶村」でおきた.
 志濃里とは現在の函館市志海苔町のことと思われる.付近には鍛冶村ができるほどの豊富な砂鉄があった.約四百年後に外国の侵略に備えて,この地で,この砂鉄で,大砲を製造するために,西洋式溶鉱炉を作ろうとする日本人が現れる.このことは「蝦夷地質学」本編でお話ししよう.
 もちろん,この時代には西洋式熔鉱炉などありようもなかった.この時代の製鉄技術は「タタラ製鉄」である.宮崎駿の「もののけ姫」でおこなわれていた製鉄がタタラ製鉄であるといえば,イメージがわくだろう.あれの原始的なものを想像するとよい.
 さて,前出の上野景明(1918)には興味深い説*1がかかれている.
 小樽手宮洞窟の古代文字は「突厥」の文字であるし,「タタラ(ta-ta-ra)」は突厥の言葉「トトラ(to-to-ra)」からきており,この「トトラ」とは「猛烈な火気」という意味だという.突厥の言葉を確認する方法をもっていないが,もし,突厥語に通じている人がこれを見たなら,真偽のほどをお教え願いたい.もしそうならば,本州では古くからあったと考えられ,北海道には和人が持ち込むまではなかったと一般的に考えられているタタラ製鉄をアイヌもおこなっていたかもしれないということになる.
 最近は,本州ではタタラ製鉄の遺構がたくさん発掘されているようであるが,北海道ではそのような話は聞かない.ただし,遺構がなくてもタタラ製鉄を行なえば,大量の「鉄滓」が出るそうなので,山歩きをする人は気に留めてほしいと思う.

さて,歴史の方に話を戻そう.
 “マキリ”事件で自然発生的・暴動的に起きた紛争では,各地に散在する和人の商人や鍛冶屋・漁師そして砂金掘りなどを追い払うことはできても,館を陥落させるまではいたらなかった.しかし,翌年のコシャマインの蜂起では,知られている十二の館のうち十までを陥落させた.アイヌの側は相当に組織立っていて,なおかつ戦闘能力も強化されていたのだろう.だが,それでもコシャマイン軍は敗北した.
 歴史はコシャマイン敗北の詳細を記録していない.その後も,百年近くにわたってアイヌと和人の小競り合いが続く.そして,松前藩が成立する.世情不安のおり,砂金掘りが続いていたかどうかは定かではない.だが,「黄金伝説」は根強く残ることになる.



蝦夷地質学外伝 其の参へつづく




*1 興味深い説:
手宮洞窟以後,余市町のフゴッペ洞窟でも同様の古代文字が発見されて研究が進んだ.現在では,東北中国からシベリアにかけての地域に同様の文字が発見されているらしく,とくに突厥との関係は注目されていないようだ.同様に製鉄遺跡との関係もとくに取り沙汰されてはいない.

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