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蝦夷地質学外伝

●其の参 「蝦夷国まぼろし」

慶長九(1604)年正月,将軍家康は本多佐渡守を通じて,松前(蠣崎)慶広(初代松前藩主)に「蝦夷が島に金山があるという者があるが,その処置は慶広にまかせる」と伝えたという.しかし,慶広は金山経営には乗り出さなかったとされている.さらに,慶長十三(1608)年には徳川幕府の金山奉行大久保長安*1が知内の砂金に目をつけ,松前藩に採掘を命じたが,松前慶広は口実をもうけて固辞した.
 この記述は「新撰北海道史」,「新北海道史」にあるが,いずれも「新羅之記録」からの引用である.新羅之記録は松前藩の編纂した歴史である.したがって,松前藩側の言い分であるから,すべてを事実というわけにはいかない.江戸幕府に隠れて採掘していたとしても,そういう記録は残すはずもないからである.
 江戸幕府側が蝦夷地の砂金にこだわったのには理由がある.家康は金山経営に熱心で,外国の新技術も取り入れて,佐渡や伊豆の金銀山からたくさんの鉱石を掘り出した.そのため,坑道が深くなり過ぎ,多量の湧水のために産額が著しく減少していたのである.

元和元(1616)年,松前慶広没す.松前藩二代目藩主は松前公広となる.
 歴史には,慶広が没したために金山封印の方針が変更されたとあるが,奇しくも金銀山開発に熱心だった家康が死んだのも元和二年だった.その時,家康の金蔵には銀十貫入り四千九百五十三箱,金二千両入り四百七十箱が残されていたという.
 翌(元和三)年,東蝦夷ソツコ(焚湖・曽津己:福島町字松浦)および大沢村(松前町大澤村)金山発見.なんとタイミングのいいことか.大沢村金山はのちに松前金山とよばれる.
 元和六(1620)年には,砂金壱百両を幕府に献上.しみったれの家康と違い二代目は気前がいいのか,献上した金だけではなく,松前藩領にある金山はすべて公広に下賜された.ますますタイミングのいいことに,翌年から松前金山は産金量が増大する.
 寛永五(1628)年,知内川の水源にある千軒鉱山開坑.
 寛永八(1631)年,西蝦夷アカガミ(渡島国松前郡赤神村)より銀を産出.西蝦夷トヨヘナイ(渡島国桧山郡豊部内)より銀を産出.西蝦夷シマコマキ(島小牧,嶋古巻:島牧郡島牧村)より砂金産出.
 寛永十(1633)年,前出上野景明(1918)によれば,「日高国沙流郡佐留へ金堀を遣す.志符舎利(シブチャリ)金山見立」と松前舊事記を引用.「新撰北海道史」,「新北海道史」には「東蝦夷地ケノマイ(日高国沙流郡慶能舞),シブチャリ(日高国静内郡)より砂金を出し」と「新羅之記録」を引用.
 寛永十二(1635)年には,運別(日高国様似郡)と戸賀地(十勝?)に金山が開かれた.

まさに,ゴールドラッシュといえないか.
 そのような時代に起きた大事件がひとつ.寛永十六(1639)年八月,大沢村にてキリシタン五十名死刑.六名が逃亡したが,上ノ国村石崎にて捕縛,その場で打ち首.つづいて,千軒金山でもキリシタン五十名が処刑.計百六名の命が失われた.
 事件を詳しく説明する余裕はないが,詳細を知りたい人には永田富智(1972)「えぞキリシタン」の研究がある.「えぞキリシタン」発起人会(1980編)「えぞキリシタン」はビジュアルで情緒的.また,フィクションでは夏堀正元の「蝦夷国まぼろし」があり,不詳の部分を補ってくれてありがたい.

日本本土では,キリスト教はすでに禁制となっていた.しかし,規制が厳しくなる以前から,キリシタンの一部は砂金掘りの集団に紛れこんでいた.鉱山の社会はもともと特殊な集団とみなされていたし,家康の時代から,キリスト教を運んでくる外国人は西洋の高度な技術の運び手でもあったのだ.当初,松前殿は「松前は日本にあらず」と公言し,外国人宣教師にも寛大な態度を示していた.したがって,複数の宣教師が幾度となく蝦夷地を訪れ,貴重な記録を残している.
 チースリクはこれら,外国人宣教師の蝦夷報告書を翻訳し「北方探検記」として出版している.その中から,一部を引用しよう.
 アンジェリスの第一蝦夷報告(1618年10月1日)(一部)

「蝦夷人がキリスト教信者となるにひどい障害があろうとは思われません.何故ならその国土内に出家がいません.彼らの誰一人も,読み書きができませんし,また中国人のような非常な利欲[の念]をもっていません.その証に,蝦夷に多数の金の鉱山が有るけれども,彼等がそれを採掘しないで,二年前から松前殿がようやくそれらの鉱山を開き始めたことでございます.小生はその金を視ましたが,甚だ純良であります.日本の金のように,というのはそれは極微粒の砂ですが,砂金ではなくて,最も小さな片でも一分はある金の砕片であります.あるときには彼等は百六十匁の重量のある金塊を見付けました.それらの金の山からは,恰も[金でできた]陸地であるかの如くに[多く産出します].後になって,日本人が金の山を採掘しているのを知って,蝦夷人に欲心が起こるかどうか小生にはわかりません.」

一匁は3.75gであるから,百六十匁は600gになる.
 また,この文章は蝦夷地はアイヌのものであり,日本本土と区別して書かれていることに注目されたい.

カリワ−リュの旅行記(1620年10月21日)

「…四年ほど前から蝦夷に純良な金を豊産する諸鉱山が発見されたので,日本中からそれを渇望する人が毎年夥しくかの大きな国へ渡るようになったことがありまして,その人数が昨年は五万人を超え,本年も三万人以上だろうといわれています.そのうちに加わって多数のキリスト教信者も渡ります.…前記した諸鉱山で金を採掘するには次のような仕方を致します.先ずこの事業に精通する人々が,そこに金があるだろうと判断して山をよく視てから,友人知人と相談して,一団体をつくり,前述した松前の殿から,その山中を流れる川畔幾ら幾ら単位長さを金塊幾ら幾らで購い,その金塊だけを実際に金を発見しようとしまいと,それにかかわらず支払わねばならないのです.このような団体が無数にその川のほとりを進んで行って,水路を彼方へ変え,それから川岸の下にある堅岩に達するまで砂床を掘ります.それらの岩の裂け目の砂の中に海浜の小石の如くに,純良な金が見出されます.」
「ときには小石の間で,三百タイル以上も価する大きな金塊が見付かることがあります.…」

タイルとは「マライ語語源の重量および価格単位.中国の両に等しい」と傍注にあるが,具体的な重さは記されていない.正確にはわからないが,一両=50gと考えれば,15kgと計算できる.金の量もそれを探す人の数も,想像をはるかに超えているといっていいだろう.

同様のことはフーベル(1939)「蝦夷切支丹史」にも示されているが,鉱山に関する記述は少ない.しかし,日高の様似に「キリシタンナイ」という地名があることを示し,千軒岳の虐殺に驚き,松前からまた付近の鉱山から逃げ出した多数のキリシタンが移り住んだに違いないとしている.前述のように,様似にもまた金山があったことを思い出してほしい.

フーベルは千軒岳の虐殺の年に,「付近の駒ヶ岳が爆発噴火し,その轟音は遠方にまでも聞え,降灰甚だしく二日間は天日も為に暗むばかり,且海嘯の襲来があって,百艘の小舟が流出し,七百の人名が奪い去られた.また千軒岳の金山も地震に由って崩壊し,採鉱に適せずなつたらしく,後には全く忘れ去られてしまひ,唯折々窃かに金を探す者が内地から来るに過ぎなくなった.」と記している.
 「キリシタンの呪い」としたいところであるが,駒ヶ岳の噴火は翌寛永十七(1640)年六月十三日のことであるし,千軒岳の金山は相変わらず金を出し続けていたらしい.それどころか,金産出の報は蝦夷の各地から聞こえるようになった.

「寛永二十(1633)年,十勝には金を産す,シラルカ(十勝国十勝郡白糠)にも金銀山あり」(上野,1918;北海道石炭鉱業会,1934編に「元郷録」から引用). 「寛文年間(1661-1672),アプカサンベ(日高郡静内川)の上流は金の採掘殷賑を極め,其舊跡猶存す」(同上に,「松前氏日誌」から引用). 「寛文六(1966)年頃,天塩国苫前郡茂別地方は当年頃迄年々砂金を採る.其他東蝦夷にてウンベツ,ユウバリ,シコツ等を始め一場所とても数十里に亙りて,広大なることもあり」(同上に,「蝦夷行記」,「北海随筆」から引用).



蝦夷地質学外伝 其の四へつづく




*1 大久保長安:
 改名前の名を「大蔵藤十郎」といい,武田信玄の猿楽師の家系に生まれた.しかし,その才能を信玄に見出され,武田領の金山開発に従事する.武田氏の滅亡後は家康に仕え,庇護者の大久保忠隣にちなんで大久保長安を名乗る.江戸幕府では,やはり,石見銀山,佐渡金山の開発をまかされた.
 一般には,死後のスキャンダルで有名であるが,彼のテクノクラートとしての能力は再評価されるべきであると考える.いずれ何とかしたいが,これは「蝦夷地質学」なのでここでは触れない.

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