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蝦夷地質学外伝

●其の四 シャクシャイン蜂起す

当時の蝦夷地は,渡島半島の南端部を「和人地」としたほかは,すべてアイヌの居住地であり,和人は入ってはいけない土地であったはずだった.しかし,現実には何度も書いているように万人単位の砂金掘りのほか,鮭捕りや鷹捕りおよびこれらを相手としての和人商人が入り込み,さまざまな軋轢を生じていた.詳細は省くが「アイヌ勘定」などという言葉があることを,思い浮かべていただきたい.

「寛文九(1669)年,蝦夷蜂起す.蠣崎佐右衛門,金堀を率ゐて防戦す.和人二百七十名殺さる.翌年,沙具沙允の乱あり.紛争激甚にして,鉱業為に衰微し,官民ともに利を失す.」(上野,1918;に「北島志」,「中古叢書」および「蝦夷年代記」から引用)

北海道石炭鉱業会(1934編)には,「寛文九(1669)年,蝦夷蜂起す.蠣崎佐右衛門,金堀を率ゐて防戦.和人二百七十名殺さる.翌年,シビツチヤリ酋長沙具沙允,坑夫庄大夫と與に叛し,紛争激甚にして鉱業為に衰微し,土人大に利を失ひ,藩亦其収入を減ず.」とある.

沙具沙允とはシャクシャインのこと.
 寛文九年の蝦夷蜂起については詳細は判らないが,現地には多数の「砂金掘り」がいたことはわかる.翌年のシャクシャイン蜂起についても詳細は省くが,新谷行「アイヌ民族抵抗史」などを参照していただきたい.シャクシャインはシベチャリの酋長であり,坑夫庄大夫とともに闘ったとあるから,シベチャリ(静内)付近にも砂金掘りがいたことになる.
 蜂起後に「越後庄大夫,庄内作左衛門,尾張市左衛門,最上助之進」の四名がシャクシャイン軍に参加していたということで,処刑されている.この肩書きが「鷹打」なので,こちらが正しいとすると砂金掘りの証拠にはならない.が,越後の庄大夫一人が特別に残酷な刑を受けたというから,北海道石炭鉱業会に引用された“坑夫”庄大夫であることは間違いないだろう.和人アイヌ入り乱れて,なにか複雑な人間模様がありそうなのだが,「坑夫」が単に人夫という意味なのか,それともある程度の技術者を指すのかすらわからない.

上記,北海道石炭鉱業会(1934編)に続けていう.それでも「只従来より多少の産出を見しハボロの濱砂金は,元禄三(1690)年より藩吏を遣わし其業を勵ますこと七年,毎年得る所百匁乃至二百匁に上れりと云ふ.」というように,引き続き蝦夷地各地で,砂金採取は続けられていた.
 一方で,元禄五(1690)年秋には,ハボロのウムシムテというアイヌが「蝦夷反乱」の噂を立てたため,鉱夫約六十名が現場を逃げ出し,福山まで逃げ帰ったということで,翌年ウムシムテは処罰されている.不穏な空気がただよっていたのだろう.

それでもまだ,「貞享二(1685)年三月,『ソーヤ』より金石を出す」,「享保六(1721)年,東蝦夷地『シビチャリ』より砂金を出す」という報告は絶えなかったのである.

さらに,採掘の記録は金だけではなくなってくる.

「貞享の頃(1684〜1687),近江の商人西川庄右衛門が「志苔の砂鉄」を十二年にわたって採取.これは正徳年中(1711〜1715)にも,近江の商人甲屋平七が採取した記録がある.」(「新撰北海道史」,「新北海道史」)
 正徳三(1713)年十二月,「松前家臣・下国要委,藩主に告て曰く,渡島国江差『ササヤマ』鉛鉱採掘.一日鉛塊五十個を得,半ば渣滓に属するも其得る所二十五貫目に至り,白銀亦多く含有すと.」(多羅尾忠郎,1890編「北海道鉱山略記」;大林雄也,1891編「大日本産業事蹟」より)

同様の記述は「新撰北海道史」,「新北海道史」にもみられ,さらにエサシの豊部内の鉛鉱山について元禄・宝永の頃,一年ほど採掘されたことを伝えている.

「宝暦年中(1751〜1763),江戸の山城屋安右衛門の願いにより,幕府吏を蝦夷に遣わし鉱山の事を檢べしめ,宝暦十三年八月,カミノクニ(渡島国檜山郡上ノ国)の銅山を採掘.」(北海道石炭鉱業会,1934編「北海道鉱業誌」より)
 「明和三(1766)年五月,幕府,中村安右衛門にマツマイ金山採掘を命じ,小人目付二名を属しマツマイに遣る.安右衛門,センゲン岳金鉱及ユーラップ鉛山を踏検掘採す.収支償わざる理由を復命し,事遂に止む.」(多羅尾忠郎,1890編「北海道鉱山略記」;大林雄也,1891編「大日本産業事蹟」より)

これに相当する記述は,「新撰北海道史」,「新北海道史」にもあり,「明和三年,山城屋安右衛門が幕府に請ひ,小人目付宇佐美仁左衛門・矢澤友蔵と共に来て調べたが,得る處がなくて帰り」とある.この引用元は記述されていないが,北大の北方資料データベース中に「蝦夷地一件」として,「蝦夷地金山採掘願人山城屋安右衛門に同行して幕府から派遣された御小人目付某が、江戸帰着ののち勘定所の質問に答えた蝦夷地見聞書」という史料が保存されているため,山城屋安右衛門という鉱山業者がいたことがわかる.ただし,例によって山城屋安右衛門とはどのような人物であるかは一切記録がない.

同じく,明和三年十一月,
「渡島国エサシ村某,従来掘採の豊部内鉛山の鉱脈減せしを以て,更に蝦夷地ユーラップ鉛山明年より十ヶ年間を期し出産額の十分の一の冥加を以て掘採を松前藩に請ひ許さる」(多羅尾忠郎,1890編「北海道鉱山略記」;大林雄也,1891編「大日本産業事蹟」より)

これは,新撰北海道史によると,「豊部内も亦鉛山で,元禄・宝永の頃開拓を見,一両年採掘されたが,引合いはないのと洪水のために中止され,後又採掘されたが,明和三年其山の稼行者江差村岸田市三郎は,鉛の産額が減じたので,翌年遊楽部の鉛山に移った.」とある.この江差村の岸田市三郎に関する記録も知られていない.

硫黄山に関しては詳細は不明であるが,エサン(亀田郡恵山)は「天明三(1783)年より四年間,福山の藤七・理三郎の二人が採掘許可を得」た.登別(幌別郡登別)は「寛政九(1797)年より五年間,森瀬屋治兵衛というものが採取の許可を得」た.また,岩雄登(岩内郡)の硫黄もすでに採掘され,馬で運ばれたという記録がある.

また,発見の経緯,操業の歴史については不詳であるが,「新撰北海道史」,「新北海道史」に以下の地下資源の記録がある.
 「東部活汲(茅部郡活汲)の鉱山」,「知内(上磯郡知内)及び茅部の石油(俗に臭水(クソウズ)という)」,「国縫の石英(俗にケンイシという)」,「釧路の石炭(俗にタキイシという)」など.
 活汲は川汲のことで,「其の弐 ブレイク&パンペリー」の「五人の学生」のところで,「新撰北海道史」,「新北海道史」,「函館市史」から引用したように,安政三年に岩雄勝右衛門らが調査した鉱山のひとつで,市ノ渡銅鉛鉱山とともに官営で金銅鉱山として操業されたという記録がある.しかし,ブレイクの報告書(博士ブレーキ報文摘要;新撰北海道史,第六巻,史料2)では「ほとんど一の金属をも認め得ず」とある.
 知内および茅部の石油については,よくわからない.以後の各報告書で産業としては採算に合わないとして放置された油徴地であるのかも知れない.灯火用など小規模であれば利用できたろう.
 国縫の石英については,どんな意味での資源であるのかも判らない.
 「釧路の石炭」については,誤解されている恐れがあるので,少し説明する.「新撰北海道史」,「新北海道史」には引用史料が明記されていないので,想像にたよるしかないが,たぶん,引用元では「クスリ」と記されていただろうと思われる.当時の「クスリ」地方とは,現在の釧路を中心とはしているが厚岸-白糠付近の海岸一帯を漠然と意味していた.じっさい,このあたりでは昔から「タキイシ」とよばれる石炭が産出するが,地域が広範囲に過ぎるので,解説は困難.



蝦夷地質学外伝 其の伍へつづく

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