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蝦夷地質学外伝

●其の伍 「北海随筆」

「元文元(1736)年十一月,板倉源次郎,松前藩本領分界図を製し,松前領外所在の金鉱を幕府に告ぐ.同十二月,幕府,源次郎に松前金銀山掘採を命ず.源次郎,採鉱人夫を南部領に募り,『マツマイ』に至る.」(多羅尾忠郎「北海道鉱山略記」;大林雄也「大日本産業事蹟」より)

坂倉源次郎は,蝦夷地探検の顛末を元文四(1739)年に「蝦夷随筆」として著した.この「蝦夷随筆」は北方未公開古文書集成の第一巻に再録されているので,現代文で読むことが可能である.この節の内容はほとんどこの解説による.
 蝦夷随筆は「蝦夷記」,「蝦夷行記」,「蝦夷記聞」,「蝦夷記事」,「蝦夷俚談」,「蝦夷松前鳥」などの異名をもち,別に「北海随筆」ともいわれている.わたしは個人的には「北海随筆」という名が好きだ.だから,この節の題は「北海随筆」にさせてもらう.蛇足しておけば,ここで言う「北海」は北海道の「北海」ではない.北海道の名は明治になって松浦武四郎が提案するまで存在しない.当時の北海といえば,北陸地方,日本海岸を指していたので,源次郎はこのあたりの出身だったのだろう.
 実はこの書は匿名で書かれたものであり,著者は不明だった.しかし,松前家の書庫に「北海随筆」の題で所蔵されていたものに付箋がついていて,それには松前広長が坂倉源次郎の書いたものだと断じている.それで,これらの著者は「坂倉源次郎だ」ということになっている.
 坂倉源次郎自身にも,異名があり,姓は「阪倉」,「板倉*1」など,名も「源治郎」,「源八郎」,「源右衛門」などがある.それで,節頭の引用文では「板倉源次郎」となっている.坂倉源次郎の名も,松前広長が記録したから,そうなっているに過ぎない.ちなみに,松前広長による北海随筆の評は「邪悪妄談」であるが,松前藩は常に本土からの探検者・記録者を快く思っていない.
 坂倉源次郎は江戸金座・後藤庄三郎の手代,金鑿・坂倉源次郎と記録されており,元文二〜三年に蝦夷地を金山を求めて探検して記録を残したこと以外はほとんどなにもわかっていない.この和製ジオロジストを語る史料はほとんどない.生没年すら不明なのである.しかし,彼の著は後世に二つの影響を残すことになる.ひとつは蝦夷地には有望な鉱山があるという風説であり,もう一つは北方には未知の民族が住んでおり,さらにその向うにロシアなどの強大な国家が控えているという意識である.
 後者は,林子平,工藤兵助などに影響を与え,最上徳内,近藤重蔵,間宮林蔵,松浦武四郎などの探検者を生みだしてゆくことになる.

なお,北海道開発庁(1960編)「北海道の地下資源」の附録年表には「宝暦十(1760)年,板倉源次郎,道内探検」とあるが,「北海随筆」発行の経緯上,その発行後に松前藩が蝦夷地への立ち入りを許すはずもないから,この記述は疑問.


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*1 板倉:
 大石慎三郎「田沼意次の時代」(岩波現代文庫)の144頁に,「八代将軍吉宗の元文年間(元文元年は1736年)浅草蔵前の板倉屋源次郎が蝦夷地を薬草の宝庫と見込んで松前に渡り,約二〇人ほどで,東西両蝦夷地に踏込もうとしたが,そうされては藩に不利益になると考えた松前側は,わざと何もないところをあちこち引き回したあげく,ていよく追い返した.」とある.これは幕府御勘定組頭・土山宗次郎の「松前并蝦夷地の儀に付及承候趣申上候書付」という上申書に書かれているという.この史料の存在が確認できないのでなんだが,この人物の存在が坂倉源次郎の名前の混乱を引き起こしているのだろう.
 また,同書には,「一〇代将軍家治の明和年中(明和元年は1764年)勘定奉行川井越前守久啓(明和八年より安永四年)の指示により御小人目付の矢沢友蔵・宇津野仁左衛門の二人が金山の調査に行くが,箱館で足留めされたあげく,クンヌイ金山が出水のため見分できなくなっているところに連れてゆき,そのうえ全然関係のない場所を見せて追い返した.」と続く.引用はもちろん,土山宗次郎の上申書である.

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