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蝦夷地質学外伝

●其の七 「蝦夷草紙」(最上徳内)

い 徳内の足跡

最上徳内*1は宝暦五(1755)年,出羽国村山郡楯岡村に生まれた.宝暦四年という説もある.没したのは天保七(1836)年であるから,八十二歳もしくは八十三歳ということになる.百姓のせがれとして生まれ,通称を房吉または元吉といった.数学に強く,江戸にでて本多利明門下となり,天文地理を学ぶ.天明五(1785)年,青島俊蔵の従者となり,蝦夷地に渡るときに最上徳内と称した.

田沼意次*2といえば,我々の学生時代には金権政治家・悪徳官僚の元祖のように教えられたが,最近では評価がガラリと変わり,「徳川歴代の政治家中,第一等の人物」と格付けされ,「近代日本の先駆者」と評価されている.
 天明三(1783)年七月,浅間山噴火.
 すでに始まっていた「天明の大飢饉」に追い討ちをかけるかのような大災害だった.そんな時代に絶頂期を迎えていた政治家が田沼意次だった.

工藤平助が死をも覚悟して「赤蝦夷風説考」を書き表したのが,やはり天明三年.赤蝦夷風説考の論旨は,ロシアと貿易して国力を高め,蝦夷地を開拓して国も守りを固めるというものだった.鎖国が国是であった当時としては,国家の祖法を犯すようなとんでもない意見だったのである.ところが,田沼意次はこの意見を取り入れ,蝦夷地に調査隊を派遣することにした.一番驚いたのは,平助自身だったろう.だが,意次にしてみれば,国の一大事を切り抜けるためのアイディア*3の一つだったにすぎない.
 意次がいなければ,蝦夷地探検などありえなかったのだが,徳内の参加した蝦夷地探検は意次の失脚とともに,悲惨な末路をたどる.しかし,徳内は生き残る.
 それでは徳内の足跡を追って見よう.

天明四年十月,田沼意次の許に提出された蝦夷地見分計画書には,普請役(調査責任者)五名のうちの一人として青島俊蔵軌起(のちに政教)の名があった.北夷先生とあだ名のある学者・本多利明は随行を希望,かねて親交のあった青島俊蔵にコンタクトをとる.利明は足軽として随行を許可されると,病気という理由で,急きょ弟子の徳内を代理に立てた.徳内は「竿取り」として,蝦夷探検に随行を許可された.病気とは口実で,利明による徳内の蝦夷地送り込み作戦だったらしい.なお,竿取りとは,測量作業の間縄引きやスタッフ持ちの人夫のことである.

天明五(1785)年四月二十九日,徳内は山口鉄五郎・青島俊蔵の率いる東蝦夷地見分隊の一員として,松前を出発.釧路・厚岸・霧多布をへて,根室に達した.時すでに七月.この間の記述が見あたらないので,簡単に到着したように思えるかも知れないが,一行はこのときすでに疲労困憊していた.このあと見分隊は,クナシリ(国後)・エトロフ(択捉)・ウルップ(得撫),さらにその先までも探検の予定だったが,実際に海を渡ったのは大石逸平と徳内だけだった.
 失礼,もちろんこれは「和人では」ということで,このときアッケシ(厚岸)の乙名・イコトイ以下数名のアイヌがガイド兼人夫として同行している.
 ともかくも,逸平と徳内は国後島南西端のヲトシルベ(泊)に着いた.しかし,すでに,八月半ばをすぎていた.さらに二人は先の島々へ渡ろうと舟を出したが,国後島の北端・アトイヤにたどり着くのが精いっぱいだった.現地に慣れている乙名・イコトイすら出港を渋ったというから,島渡りにはすでに時機を逸していたのだった.
 徳内と大石は,択捉島にも渡ろうとしたが,必死に止めるアイヌたちの言い分を聞いて,断念.翌年もっと早い時期から調査を開始することとして,松前に帰ることにした.上司たちはといえば…,根室について数日で,すでに松前に引返していた….

明けて,天明六(1786)年正月二十四日,徳内はひとりで松前を出発.
 ふたたび,乙名・イコトイ以下を従え,根室を出港したのは三月十日.アイヌの従員の数はわからないが,「蝦夷舟三隻」とある.
 彼は国後から択捉に渡り,択捉で念願の三人の「赤人」と面会する.時に五月五日であった.その夜,日本・蝦夷・ロシアの三国人による大宴会が開かれたという.ロシア人の名は,イジュヨ・サスノスコイ・ニケタ.徳内は物産のこと,世界のことをイジュヨに尋ねる.徳内は,この三人を伴って,国後島へUターン.そこには,徳内を追って山口・青島の二人の上司のほか松前の役人が来ていた.ロシア人三人を山口・青島に預け,徳内はとんぼ返りして得撫島へむかう.もたもたしていると,また探検を断念しなければならなくなる.すでに六月下旬.
 なんとか得撫島にたどり着くも,すでに更なる北上には不適切な季節となり,食料もつきかけてきた.そこで得撫島を一周し,帰路につく.国後島で三人のロシア人と面談し,かれらに本国に帰ることを約束させ,涙の別れをおこなった.
 徳内が,上司ら一行と松前に帰還したのは,八月二十一日であった.
 ただの竿取り=使用人にすぎなかった徳内は,この探検行で,一躍時の人となる.一方で,松前藩やその御用商人等からは,見てはならないものを見てしまった危険人物とみなされることになる.

徳内の参加した(というよりは,ほとんど徳内の業績であるが)東蝦夷地見分隊は上記のような成果をあげた.一方,別動隊の西蝦夷地見分隊は,蝦夷地の西岸を北上,ソウヤ(稚内市宗谷村)に到着,そこから北蝦夷(カラフト:樺太=サハリン)に渡り,それより先はできるかぎり遠くまでゆく予定だった.かれらは天明五年のうちに,北蝦夷に渡り,海岸伝いに東はトオブツ(長濱村遠淵)まで,西はタラントマリ(廣地村多蘭泊)まで進んだが,食料などの物資補給に問題が出てきたので,ソウヤまで戻り,ここで越冬を試みた.
 翌天明六年春,第二回北蝦夷調査のために,ソウヤに赴いた大石逸平は,越冬隊のうち五人が寒気のために死亡するという大惨事*4を発見.彼らの救援を松前藩に要請.先が見えたところで,大石はソウヤをたって,北蝦夷を目指す.時に,天明六年五月三日.
 シラヌシ(好仁村白主)到着が,五月十日.
 探検の準備を整える間に,東海岸を歩いて探検し,西海岸の探検を開始したのは五月半ばとされている.舟により北上.クスリナイ(久春内村久春内)にたどり着いたのは六月も十日ほどになっていたとされる.大石はさらに北上を希望したが,この先,人の居住地は少なく,次の集落に着くには二ヶ月はかかると説得され,断念.原住民からの聞き書きで,北蝦夷南半分の地形を押さえた.そして,大石が北蝦夷を離れ,ソウヤに帰り着いたのは,七月七日であった.蝦夷地探検は終りに近づいていた.

しかし,そのころ,江戸では重大な政変が起こっていた.
 天明六(1786)年八月二十五日,将軍家治薨去.
 八月二十七日,田沼主殿頭意次,病により(という理由で)老中職を罷免.
 十月二十八日,「蝦夷地一件」差止め.

すべては無に還った.
 江戸への帰り道,急ぎ,取りまとめられた報告書は受理されなかった.
 口頭での報告すら,「只此事止む」のひと言で封じられてしまった.
 蝦夷地探検全般については,照井壮助(1974, 2001)「天明蝦夷探検始末記=田沼意次と非運の探検家たち」(影書房刊)を読んでいただければと思う.

徳内は,天明七年七月,単独で松前城下に上陸した.
 徳内にとっては,江戸城内の政変など,どうでも良いものだった.徳内には世界が見えていた.千島はおろか,アッケシ乙名・イコトイの先祖が命名したという「カムチャツカ」までもいってみたかった.しかし,徳内は松前城下で逮捕.強制追放処分となった.

徳内が,蝦夷地再航を夢見て暮らしていた野辺地に,かつての上司・青島俊蔵がやってきた.天明九年五月,クナシリ・メナシのアイヌが蜂起.その調査のために,徳内の力が必要であった.徳内は二つ返事で承諾.同年七月十五日,徳内三度目の蝦夷地渡海であった.徳内の東蝦夷地訪問は八月十二日からということで,その間,約一ヶ月の行動は不明であるが,騒動のあった東蝦夷地ではなく,西蝦夷地を調査していたらしい(後述の「蝦夷草紙」の内容から).その後は東蝦夷地を回り,江戸に帰ったとされている.
 青島俊蔵は,十一月には報告書を提出している.しかし,この報告書の内容が時の老中・松平定信の逆鱗に触れ,寛政二(1790)年正月,俊蔵と徳内は投獄される.同年五月一日,徳内は恩師・本多利明に救出されるが,そのときには瀕死の重病人だった.「蝦夷草紙」(正編)は,このときの療養中に書かれたものとされている.八月五日,徳内は「放免」されるが,俊蔵は有罪で「八丈島へ遠島」処分が決定する.ところが,同月十七日,俊蔵は牢の中で病死した.
 冒険者たちには,蝦夷地の風土よりも,江戸の政治の方が過酷だったらしい.
 俊蔵の死は病死ではなく,老中・松平定信に対する抗議の餓死だったといわれる.天明五・六年の探検に対する処置もふくめて,俊蔵はまさに憤死したのだった.

牢死した青島俊蔵とは対照的に「放免」された徳内は,その年のうちにまた「蝦夷地御用」を命ぜられた.今度は「御家人」と呼ばれる将軍直属の家臣に出世していた.
 翌,寛政三年正月,松前に四度目の上陸.目的は松前藩のロシア対策やアイヌに対する待遇改善の進行状況の調査であったが,表向きは貧困にあえぐアイヌに対する「救済交易」の状況調査だった.
 二月十一日には松前を出立.四月三日には,国後島に上陸した.同月十六日,択捉島上陸.現地でロシア人の動向や住民の民心をさぐり,さらに得撫島へ.じつは,徳内はイジュヨと再会したかったらしい.そして,イジュヨといっしょにカムチャッカまでも,いってみたかったのだ.だが,イジュヨはすでに再三,松前藩から退去命令を受けていたし,今度は幕府のエライ人間がやってくるという風聞を聞きつけ,身の危険を感じ急ぎ退去したものらしい.そのエライ人物が旧友の徳内だったとは,イジュヨには知る由もなかった.なお,徳内に西洋の科学知識や世界の事を教えてくれたロシア人イジュヨのことは,ロシアの正史にはなく,どのような人物だったのかは判っていない.
 徳内は,さらにウルップ島探検*5を続け,七月,アッケシに帰着した.

翌,寛政四年,「西蝦夷地交易御用」および「樺太見分」を命ぜられ,松前から西蝦夷地経由で,樺太へ.この時の探検には,半田銀山(福島県伊達郡桑折町)より鉱山師・菅野介七が徳内に同行したが,この介七がどのような人物で何をしたのかは定かではない.途中,用意した船が難破するなど,幸先の悪いスタートとなったが,この事故のために西蝦夷地は主に船で移動したもので,往路は陸路での調査はなかったことが判る.
 四月,ソウヤ(稚内市宗谷村宗谷)上陸.四月半,樺太島シラヌシ(白主)着.
 五月二十五日,クシュンナイ(久春内)着.この時の調査で,松前藩密貿易の証拠を発見.帰路は,途中から山越えして,東海岸に出て産物調査.七月半ばに宗谷に帰った.その後,宗谷・石狩などで,“救済交易”の状況見分をおこない,松前に帰ったのは十月といわれる.

老中・松平定信は,国際感覚・時代感覚の皆無な人物で,アイヌ救済を含めた北方問題をまともに考えた様子がない.そのため,徳内に次の出番がくるのは,寛政十(1798)年のことになる.この間,大黒屋光太夫を乗せてロシア使節ラックスマンの乗船「エカテリーナ」号がやって来るが,幕府の不誠実な対応にむなしく帰る.田沼意次が老中であったなら,日露関係は全く別な事態を迎えていただろう.彼の失脚は大変な不利益を日本にもたらしていた.
 ほかにも,寛政八年,英国海軍中佐ブロートンの乗るプロビデンス号がエトモ(室蘭市絵鞆)に入港.翌九年にもブロートンは別の船で絵鞆にやってきた.その目的は,交易ではなく単なる探検であった.途中,噴煙たなびく火山群に目をとめ,これらが取り巻く大きな湾をボルケイノ・ベイと名付ける.我々が今,内浦湾を噴火湾ともよぶのは,これが起源だ.蛇足ながら,この火山群とは,恵山・有珠山・駒ケ岳のことである.

寛政十(1789)年,国境警備を松前藩から幕府の担当とするための準備として,蝦夷地見分隊が組織された.総勢百八十八名というから,相当な大部隊である.見分隊は番所建設地の選定を受け持つ大河内善兵衛政壽の隊,松前家財政調査を受け持つ渡邊久蔵胤の隊,開拓適地の選定を受け持つ三橋籐右衛門成方の三隊に分かれていた.徳内の上司である近藤重蔵は大河内政壽に属し,「東蝦夷地末々の島」まで見極める使命を持っていた.
 徳内は別の御用で出張中だったので,本隊から一月遅れで江戸を発つ.同行したのは,下僕の長助のみで,途中伊達の桑折から半田銀山の鉱山師の菅野助七*6を伴った.この助七は寛政四年にカラフトへ同行した鉱山師・菅野介七と同一人物ともわれるが,詳細は不明.
 徳内は先行した近藤重蔵らを追って太平洋岸を東行,途中浦河辺りで大河内善兵衛一行を追い越す.善兵衛は様似-幌泉間の難所越えに音を上げ,そのまま松前に帰還した(!?)というから,ほんとに見分隊の代表という役目だったのかどうか,疑問だ.徳内はそのまま,近藤一行を追い,国後島のトマリ(泊)運上屋に七月十七日に着いた.ところが,そこに近藤と同行した村上島之允・長嶋新左衛門らはいるのに近藤はいない.徳内が問い糺すと,重蔵は下僕二人のみを連れ,アイヌらと北上したという.司令・大河内善兵衛にしても,近藤と同行した隊員にしても,とても幕命を帯びた団体とは思えない行動ばかりだ.
 なにはともあれ,徳内は上司・重蔵を追う.
 徳内が重蔵に追いついたのは,国後島北端のアトイヤ(安渡移矢)岬.七月二十五日のことだった.簡単に書いてしまったが,この時の徳内の行程は「超人的」と形容されている.徳内・重蔵は合流したあと,択捉島・得撫島に渡ろうとする.しかし,二人が超人でも,従者は常人であった.国後島と択捉島の間の択捉海峡を渡ったのは,徳内と重蔵,重蔵の従者・下野源助の三人とガイド兼人夫のアイヌたち十二人だけだった.七月二十八日.この時に,あの有名な「大日本恵登呂府」の標柱をたてた.すでに,これ以上の北上は無理な季節に来ていた.帰還を決め,国後島についたのが,八月一日.千島巡検を終えて,野付半島の標津についたのは八月二十六日だった.
 千島巡検を終えると,そのまま松前までの東蝦夷地の調査に入る.
 東蝦夷地での調査は,松前家の蝦夷地における施政状況だというから,我々の知りたいことにはあまり関係ないようだ.はて,それでは,なぜ鉱山師の菅野助七を同行させたのかがよくわからない.ともあれ,松前には十月二十一日に到着.江戸には十一月十七日にたどり着いた.

翌,寛政十一年にも,蝦夷地見分隊の大部隊が組織された.
 今回の徳内は,道路掛りとして様似-幌泉(現在のえりも町)間の山道および猿留山道の開削・整備を担当した.探検はおこなっていないので,部隊本隊については記述を省略する.徳内にとっては,七回目の渡海であった.数回の東蝦夷地探検の陸行で,日高山脈越えの道路の重要性を身にしみて感じていた徳内は,せめて馬が通行できるほどの道路をと,念を入れていた.
 六月八日,見分隊総裁・松平信濃守忠明が工事現場を通りかかる.状況報告した徳内に忠明は「念を入れたるは宜しからぬ」と叱責.徳内は唖然とする.ここが通れないと,東蝦夷地へは船によるしかなく,海が荒れた場合は全くほかに方法がない.しかも昨年は,探検隊の司令がこの難所越えに音を上げ,職務を放棄して松前に帰っているのだ.ひるまず反論した徳内に,信濃守は「取放し」すなわち免職を言い渡す.
 徳内は辞表を提出して離任,十月半ばに江戸に帰った.この間,蝦夷地を観察していたというから,どういう心境だったろう.徳内は辞職したその日から,絵師・谷元旦とともに,ショウヤ(庶野)-ヒロウ(広尾)からクスリ(釧路)方面まで踏査し,また広尾に戻り,ここで谷元旦と別れた.谷元旦はこの時の旅行で,たくさんの蝦夷地に関する記録を残した.この年の有珠山の形態が今も残るのは,この谷元旦の記録による.徳内は工事完了した新道を見ながら帰ろうと考えたが,工事に従事していたアイヌが「新道を通っては格別難儀だ」というので,古道を通って帰ったそうだ.徳内をはずしておこなわれた新道工事は莫大な予算を費やし,人も通らぬものとなってしまったのだった.
 さて,上司への反論は,その場で「手打」処分でも文句は言えない時代だった.しかし,徳内は江戸に帰ってから,十二冊に渡る意見書を提出した.それは受理された上に,蝦夷地で提出した辞表も返されたというから,徳内の実質勝利だった.とはいえ,翌寛政十二(1800)年から文化元(1804)年まで,徳内は蝦夷地御用から遠ざけられてしまった.
 その間,伊能忠敬が蝦夷地の測量を続け,間宮林蔵が蝦夷地勤務を続けていた.高田屋嘉兵衛が択捉島,得撫島に渡り,蝦夷地は幕府直轄の方向へ動いていた.そして,徳内は「蝦夷草紙 後編」を書き上げる.

文化二(1805)年,徳内に人生八度目の蝦夷地渡航の機会が訪れる.
 この年,蝦夷地見分が決定され隊長の遠山金四郎景晋*7から指名されたのだ.遠山景晋は寛政十一年探検隊の現地御用の重役であり,徳内の働きぶりを知っていた.徳内は十月三日に松前に上陸,そのまま松前で越冬した.
 明けて文化三年三月,遠山景晋隊長以下八名は西蝦夷地探検に出発する.
 三月十九日に江差村の姥神神社の見分のとき,一枚の扁額を発見.その文字の解釈が話題になるが,のちのちこの扁額の文字が江戸で問題になり,翌年,松前家は国替えとなり蝦夷地は幕府直轄となった.ウソみたいな話しであるが,すでにロシアとの密貿易の証拠が見つかるなど,なにか機会があれば,蝦夷地は幕府直轄となるような時代の風が吹いていたのだ.
 さて,この西蝦夷見分の途中で気になる記述がある.

「メナシトマリで,徳内は金銀を含む山相を発見し,石質の説明に及ぶや遠山を初め医師東寧元槙に至るまで皆々舌を捲いて感心した.この山は明治中期になって採掘が始められたというから,ただの想像ではなかったのである.」(島谷良吉「最上徳内」157頁)

これが事実だとすれば,徳内は相当の地質学的・鉱山学的知識を持っていたことが推測できる.だが,島谷の本では徳内の知識を確認できるこれ以上の記述は見つからない.さらに,このメナシトマリがどこなのかも明示されていない.
 ところが,同じ件が,皆川新作「最上徳内」には以下のように具体的である.

「四月十七日,シャコタン出船,ヨイチ泊.十八日,舟行.オショロ,カブト岩,チコタン,モムナイ,ショウヤを過ぎてメナシトマリ(高島に近い)あたりの山に金銀氣のあるものあり.その形相ほぼ備わってゐると徳内いふ.」(皆川新作「最上徳内」)

ヨイチは余市,オショロは忍路,カブト岩は忍路湾入り口にある岩のこと.ここには,北大の臨海実験場があるが,我々地質屋にとっても,ハイアロクラスタイト,フィーダーダイクなどが観察できる巡検コースでもある.
 チコタンは地名としては残っていないようだが,モムナイは桃内,ショウヤは塩谷である.ここを過ぎて,高島に近いあたりにメナシトマリがあるという.メナシトマリとは「メナシのトマリ」つまり「東(風の時に安全に過ごせる)停泊地」という意味で,該当する地形のところは数限りなく候補地がある.だが,高島に近いところとなると,現在の小樽水族館のトドの池になっているところが一番可能性が高い.小樽市在住のギタリスト,浜田隆史氏のホームページ上にあるアイヌ語地名解では,昔の地形図にはメナシトマリという地名が書かれたあったとされている.
 さて,徳内の説くところに耳を傾けてみよう.

金銀氣ある山の形相は嶺平かにて草の生ぜぬ所俗に『天狗の相撲場』といふ.それより少し下七八合あたり鬱樹中岩のありそうにない所に突然とある岩を楯頭(たてつむり)といふ.また下りて岩にたかく條たつてゐるを樋(つる)といひ,最下に長く裾の開いた石を踏出といひ脚を踏開いた形をしてゐる.樋と踏出は楯頭より脈絡貫通してゐる先端である.樋と踏出を標に堀穿てば鏈とて金銀色あるものが現れる.この鏈を傳はつて堀入れば,天狗の相撲場の眞下に必ず金銀がある.

ここで注意して欲しいのは,徳内は明らかに「鉱床発見の方法*8」を述べていることである.世に鉱山関係の古書といわれるものはいくつもあるが,それらのほとんどは鉱山の運営法と鉱石製錬の方法に偏っている.徳内のように「鉱床発見の方法」について述べたものは少ない.鉱山発見の方法は秘伝であり,書物に残せるようなものではなかったのだろう.これが本当に徳内の言説だったならば,それは当時の山師の知識なのだろうと思われる.菅野助七に教えられたものなのだろうか.

徳内のこの鑑定には景晋も東寧元槙も大いに感服したものの如く,ともにその日誌に書き留めている.実際海岸を去る七八里,余市川上流に近い所に轟鉱山・後志鉱山・シカリベツ鉱山・國富鉱山等の金銀鉱山が東西に並んでゐて,明治二十三年から同廿九年にかけて採掘が始められた.

メナシトマリで話題になったのであるから,話の流れからは,付近の赤岩鉱床のことかと思われたが,赤岩鉱床は「銅・鉛・亜鉛」鉱床であり,記述とは整合しない.ただし,赤岩を見上げながら,鉱床の話をしたとすれば,それは臨場感があっただろう.さて,赤岩からせいぜい範囲を伸ばしても,丸山・毛無山・小樽峠辺りまでかと思われるが,該当する鉱床はそこにはない.ところが記述のように海岸から七八里(約32km)となると,余市川上流ということになり,そこには確かに重要な金鉱床はあったが,それならば,余市辺りで話題になるはずのもので,話の流れに整合性を欠いている.あまりにも場所が離れすぎているのだ.
 ただし,徳内は羊蹄山に登ったとかいう話があり,これまでの西蝦夷探検の時に,内陸部まで川を遡った可能性はある.その時に,金鉱床らしきものを見ているのかも知れない.それにしても,メナシトマリで余市川上流の鉱床を話題にするというのは解せない.
 ところで,轟鉱山は確かに金銀鉱床で銅・鉛・亜鉛・マンガンを随伴し,明治三十六年から操業されている.また,後志鉱床は中ノ沢鉱床ともいい,これも金銀鉱床で,明治四十二年から操業されている.だが,シカリベツ鉱床は大江鉱床のことで,鉱種はマンガン・銅・鉛・亜鉛であり,操業は大正末期からである.国富鉱床も銅・鉛・亜鉛鉱床で明治末期からの操業となっている(長谷川潔・寺島克之・黒沢邦彦「北海道の金属鉱物資源」より).つまり,鉱山の名称や採掘時期については,どうも記述が不正確だということになる.遠山金四郎景晋や医師・東寧元槙の日誌なるものには,正確にはどのように書かれているのか,ぜひとも,実物を見てみたいものだが,その所在は不明である.

話しを探検行に戻そう.
 この後,宗谷につき,五月十四日に帰路につく.帰路,「石狩では東西蝦夷地の境界*9を視察した」というから,江別・北広島付近までいったのだろう.徳内は,ここで遠山らと別れて,夕張地方を探検したという.その後,本隊と落ち合って文化三年八月十五日に江戸に帰った.

翌,文化四(1807)年.また,徳内に蝦夷地見分,今度は樺太派遣の話が持ち上がった.そして,徳内派遣の準備が進行しているとき,大事件が勃発した.文化四年四月二十一-二日頃,箱館奉行より「ロシア船樺太上陸」の報が飛び込んだのであった.
 それは文化三年九月に樺太島にロシア船が襲来,松前家の番所を焼き払い,番人四人が連れ去られたというものであった.この報は,箱館から江戸まで通常四十〜四十五日,急いでも二十日はかかるところを,わずか十日で到達したもので,そのことだけでも,どれほどの大事件と考えられていたのかが判ると思う.また,実際に事件が起きて,現地から箱館にその報が届くまでに,七ヶ月もかかっていることで,当時の蝦夷地の連絡網の様子もわかるだろう.
 ロシア船は略奪のあと,十一月下旬頃まで樺太島の沖合に停泊していたという.

徳内は五月二十一日に江戸を出発した.徳内にとっては九度目の蝦夷行であった.

五月二十三日,箱館にむかう旅中の江戸詰・箱館奉行が仙台に泊したときに,箱館詰・箱館奉行からの早馬に出会った.
 また,大事件であった.四月二十三日,択捉島ナイボ(内保)沖にロシア船二隻*10が現れた.ロシア船は大砲を撃ち,小舟で上陸後,漁小屋などを焼き払い.番人を連れ去ったというものである.ロシア船はこのあと,二十九日,日本側の基地があるシャナ(紗那)沖にも現れ,会所を攻撃,守備隊は総崩れとなった.ちなみに,この時の紗那守備隊には間宮林蔵がいた.さらに,五月二十九日.利尻島沖で,二隻のロシア船が日本の輸送船団四隻を襲い,内二隻の積み荷が略奪された.

ナショナリズムを高揚させるのはまだ早い.
 この時のロシア艦隊の行動には訳があった.十五年前の寛政四(1792)年,大黒屋光太夫を日本に送り届けたラクスマンはただの親切心でやってきたわけではない.ロシアは日本との貿易を希望していた.ラクスマンはほとんど何の成果もあげずに帰国したが,江戸幕府の通称許可をほのめかす回答を得ていた.幕府はあいまいな形で断わったつもりだったが,ロシア側はいずれ通商を開始する約束と受け取ったわけだ.
 この約束を受けて,ロシア皇帝は1804(文化元)年,レザノフを使節として派遣.この時もロシア側は日本人漂流民を伴っていた.レザノフは約束の履行を要求.しかし,幕府側はロシア人の上陸も許可せぬままに半年間放置.翌文化二年に幕府から届いた回答は「不許可.ただちに退去せよ」というものだった.ロシア人側の立場に立てば,怒らない方が不思議.それでも,レザノフは一応おとなしくカムチャツカに帰った.
 カムチャッカについたレザノフは,部下を蝦夷地におくって探検させる.部下は,蝦夷地周辺の防御は無いに等しいことを報告.わずかな軍艦だけで,北蝦夷(樺太)・蝦夷(北海道)・千島は占領できるだろうし,そうすれば日本もロシアを無視しつつけるわけには行かないだろうと進言.「通商を開け」という命令を遂行できなかったレザノフは,この進言に乗ってしまったのだった.
 なお,この海賊行為はロシア皇帝の命令や許可を受けた行動では無く,事後に関係者は処分され,レザノフは1807年にクラスノヤルスクで客死している.

当初,樺太探検の予定であった徳内にも,この騒動の影響が出て,九回目の蝦夷行の任地はシャリ(斜里)詰となってしまった.蝦夷地はどこも騒然として戦争状態であったが,徳内はこれ以上の拡大は無いと踏んで,西蝦夷地の海岸を通り,宗谷からオホーツク海岸をあるいて,任地の斜里についた.斜里には津軽兵百人が駐在し,徳内はこの指揮をとる.徳内はそのまま,斜里で越冬.はたして,徳内の踏んだ通り,事件の拡大は無かった.しかし,天明五・六年の宗谷での越冬と同様に,部下は春を待たずに五十一人が死亡した.野菜不足や寒さによるもの思われるが,当時は原因不明であった.
 明けて,文化五(1808)年二月,徳内は樺太詰を命ぜられ,斜里を発つ.この時,間宮林蔵にも樺太詰の命令が出ていた.二月二十九日,宗谷に到着した徳内はここでも,多数の越冬による死者を見た.和人の蝦夷地での越冬は大変な負担だったのである.

宗谷にて,あらたな樺太探検隊が組織される.
 四月朔日,宗谷を出帆.いったんシラヌシ(白主)についてからアニワ(亞庭)湾方面に移動,ロシアによる攻撃の跡を見てから,クシュンコタン(大泊)に上陸した.まもなく,会津兵約八百名が上陸.軍事教練をして気勢を上げた.しかし,その後もロシア船は現れなかった.
 徳内らは会津兵が駐留しているうちにと,樺太探検に出かける.
 六月十一日,クシュンコタン(大泊)から出港.ノトロ(能登呂)半島の東海岸沿いに南下し,岬を回って北上.トンナイ(真岡)に上陸した.
 間宮林蔵と松田伝十郎の二人は,すでに四月十三日にソウヤを発ち,その日のうちに白主に到着.そこから伝十郎は西海岸を林蔵は東海岸をチップ(丸木舟)で探検中であった.
 徳内はトンナイ(真岡)で付近の乙名を集めて,二十日以上に渡り情報収集をおこなった.山丹舟三艘が白主にむかっているという情報を得,徳内は白主にむかう.閏六月十一日,はたして,白主に山丹舟が入港した.そこで,徳内は山丹人から情報収集をおこなった.
 樺太から撤退する会津兵が七月八日に白主に入港.徳内はこれに便乗して,九日宗谷へ帰った.宗谷から松前への帰路で嵐に会い,着いた所がなんと秋田の港だったというが,七月中には松前に戻ったとされている.
 今回の役目はこれで終わったはずであるが,以後の徳内の行動は不明.その後,文化五・六年を松前で越冬したというのが史実とされているが,その間の行動はまだ明らかになっていない.また,これ以降,蝦夷地に赴任したという記録は無い.

以上が,徳内の探検のあらましである.旅程については利用できる文献が皆川新作「最上徳内」とそのダイジェスト版ともいえる島谷良吉「最上徳内」しかないので,クロスチェックができず事実関係に不安が残る.また,行程に不明な点も多いもののしようがない.そういうレベルであることは留意されたい.


蝦夷地質学外伝 其の七 ろ へつづく





*1 最上徳内:
 最上徳内の伝記には,島谷良吉(1977)「最上徳内」(吉川弘文館刊) がある.これには,著書や作成地図のリストが載っており,過去の最上徳内に関する文献もまとめられている.本文を推敲中に古書店から皆川新作「最上徳内」を入手した.島谷の「最上徳内」は多くは皆川の「最上徳内」のダイジェスト版である.島谷の記述では不詳の部分も,皆川の「最上徳内」では詳細がわかる.本文中の徳内の行動はこの二つから引用した.皆川の記述は,徳内の「自叙伝ともいうべき『家大人小傳』」から引用してるようだが,島谷の文献リストには「家大人小伝」は,「高津鍬五郎著」になっている.なお,「高津鍬五郎」は,徳内の養子である.「家大人小伝」というのはその所在は不明である.
 徳内自身の著作は,ほとんど見ることが不可能であるが,時事通信社から出版された吉田常吉編「蝦夷草紙」は古書店でなら,見つけることができるだろう.この「蝦夷草紙」は,徳内自筆の「蝦夷草紙」三巻と「蝦夷草紙・後編」三巻を現代語訳したものである.また,MBC21なる自費出版専門の会社から,須藤十郎編「蝦夷草紙」が1994年に出版されているが,残念ながらすでに市場にはなく,各書店では「絶版もしくは重版未定」で入手不可能の範疇に入れられている.

*2 田沼意次:
 江上照彦(1969, 1999)「悪名の論理ー田沼意次の生涯」(中公新書),大石慎三郎(2001)「田沼意次の時代」(岩波現代文庫)などが新しい評価の代表.

*3 アイディア:
 意次の奇人変人好きは相当なもので,これまた命の危険を冒して出版したつもりの前野良沢・杉田玄白の「解体新書」は,やはり,意次の目に留まり,罪を蒙るどころか褒められさえした.山師としても活動した平賀源内も,意次のお気に入りの一人だった.ひょっとすると現代よりも,科学者が優遇された時代だったかも知れない.意次はこれらの奇人変人が時代の閉塞を突破する起爆剤になると信じていたのだろう.

*4 大惨事:
 正確には,寒気のためではなく,野菜不足からくる壊血病,栄養失調が主たる原因と考えられている.蝦夷地の冬という極限状態で,なにが起こるか全く判っていなかったのだ.

*5 ウルップ島探検:
 徳内はウルップ島探検の最中に,翌年ロシア人が日本人の漂流民を連れてくるという噂を聞きつけ,寛政四年に「幸太夫・磯吉等を連れ来たれり」と記録している.この幸太夫とは,大黒屋光太夫のことである.この大黒屋光太夫の帰還を軸に,北辺の動向をとらえたのが田中明(1995)「ウラー・ディアナ=知られざる日本北辺関係史」(近代文藝社刊).

*6 菅野助七:
 本文にも書いたようにこの助七は,寛政四年にカラフトへ同行した鉱山師・菅野介七と同一人物とおもわれる.最初,島谷良吉の「最上徳内」で,この二種の名前をみつけたが,皆川新作の「最上徳内」でも二種の名前が使用されている.思うに,皆川の誤記をそのまま島谷が踏襲したのだろう.地質屋は今も昔も,扱いが軽いのう….ちなみに,島谷では菅野助七が「半田銀山」のものであるという記述も略されている.皆川のネタ本を知りたいものだ.

*7 遠山金四郎景晋:
 伝説の人物「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の父親.

*8 鉱床発見の方法:
 当時の鉱床発見の方法は,それこそ当時の地質学そのものなので,いずれ詳しく調べてみたいと考えているが,あまり良い材料がない.
 徳内のいう「草の生ぜぬ所」に鉱床があるという論は,黒澤元重の「鉱山至宝要録」にもあり,山師の狙い目であったようだ.また,徳内のいう「楯頭」とは,残丘的に突出した珪化岩もしくは石英脈の露頭のことであろうか.

*9 東西蝦夷地の境界:
 この時代の「東西蝦夷地」の区分は,東北海道・西北海道という区分をイメージしては間違いだ.松前辺りを境界として,東蝦夷地は太平洋岸および内陸部,西蝦夷地とは日本海側および内陸部をさす.まれにオホーツク海側を奥蝦夷地と呼ぶこともある.蝦夷地の地形が明白でなかった時代の松前を中心としたイメージによる区分だと考えて欲しい.

*10 択捉島にロシア船:
 択捉島事件については,関係者の記録として,森荘已池「私残記」(中公文庫)に詳しい.

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